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(第472話) ヤギ草刈り隊 |
2005,11,30 |
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読売新聞社主催の「第15回地球にやさしい作文・活動報告コンテスト」の入賞作品が、11月24日付けの読売新聞に掲載されていた。その中から高校生の部文部科学大臣賞の窪田愛さんの作文の一部を紹介します。 窪田さんの住む広島県北部の庄原市は農業者の高齢化が進み、草刈りが困難な農地が多くなっているという。
“そこで私は、高校生による草刈りボランティアを考えつきました。ただ草刈りをするのではなく学校で飼っている多くのヤギを活用するのです。ヤギは草を食べ、その食べ残しを私たちが機械で除草する。その間、地域の人達と交流するというアイデアです。(中略) 「ヤギ草刈り隊」の活動は、依頼のあった農家へ行き、草刈り予定地を調査することから始めます。調査の結果を元に、ボランティアに参加する生徒の人数や場所にあった草刈り方法を検討し、より有効な実施方法を決めます。”
その結果合計12カ所、18回草刈りを行ったという。この話は、8月9日紹介の「(第370話)レンタカウ制度」と全く同じ発想、そのヤギ版である。高校生が自分たちで考え、実施したところが素晴らしい。それに牛の方は有料、ヤギの方はボランティアである。それにしても行動力があるものだ。とても今時の若い者は、などとは侮れない。むしろ活発な人は昔以上に活発ではなかろうか。 このコンテストがもう第15回というのにも驚いた。もう15年も前に地球環境の危機を訴えながら、事態は更に悪くなっているのである。
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(第471話) 学力低下問題(その2) |
2005,11,29 |
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9月20日の第410話で、中日新聞に掲載された尾道市土堂小学校・陰山校長の学力低下問題という文を紹介した。今日はこの陰山校長と学力低下問題を、その2として全然別のところから引用したい。 少し古いが「清流」という雑誌の今年8月号をたまたま見ていた。ジャーナリストの徳岡さんの文からである。 “新しい学習指導を考えた陰山さん、実は学校より家庭の教育を重視している。 「(日本の子供の)成績低下が問題になった国際調査で、本当に重要なのは、世界の中で家庭学習が最も短く、テレビ視聴時間が最も長く、家の手伝いをしないという結果だ、家庭の空洞化が問題」 日本の子供の1日のテレビ視聴は平均2.7時間、年間千時間。学校で教える「道徳」は年間35時間。勝負にならない。”
この文に興味を持ったのは、千時間と35時間の数字である。そして、勝負にならないの言葉に頷いた。 ボクはインターネットをするようになって、更にホームページを作るようになって、更にこの「話・話」を書くようになってテレビを見る時間が格段に減ってしまった。特に夜のゴールデンアワーといわれる7時台8時台はほとんど見なくなった。しかし、番組欄を見れば何をやっているかおおよそ分かる。批判を覚悟で言えば、ほとんどは反教育的、反道徳的である。番組が教育的、道徳的であればテレビ視聴時間の長さも問題にならないし、徳岡氏も勝負にならないなんては言われないだろう。まさに教育問題は社会問題、家庭問題である。
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(第470話) 初雪の降る日 |
2005,11,28 |
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中日新聞の家庭欄に「くらしの作文」という、もう何十年と続いている投稿欄がある。この欄は女性の投稿欄かと思うほどに、ほとんどが女性である。この投稿欄のことではないが、男性の文は気負いや見栄、理屈が多く、それに比べ女性の文は素直なので採用しやすということを聞いたことがある。「くらしの作文」というタイトルからして、仕事オンリーの男性より女性に書きやすいのかも知れないが、先ほどの理由もあるのかも知れない。 11月21日付けのくらしの作文には、何か快い男性の投稿文があったので紹介する。
“ある雪の日の午後、私たち悪童は中学校横に深さ50センチもある特大のだまし穴を作った。電柱の陰に隠れていると、少し離れたところにあった女学校の生徒が足をつっこんだ。なかなか立ちあがらない。足首をねんざしたのである。友人らは逃げたが、私は責任を感じ助け起こして肩を貸し、わびながら女学生を家まで送った。 彼女、K子は怒ったが、私の誠意だけは認めてくれた。これが縁で2人はその後、出合うと話したりするようになった。私が長年連れ添う妻の名は、K子という。”
金沢市の岡本さん(80)の投稿文。「だまし穴」とは雪道に穴を掘り、薄板で穴を覆い、その上に雪をかぶせて分からないようにしておき、人が落ちるのを楽しむいたずらである。こんないたずらから芽生える恋もある。 ボクもだまし穴を作った覚えはあるが、こんな見事な結果にならなかったので、どう言う結末になったか記憶にない。そして、ボクの文は気負い、見栄、理屈の最たるものであろう。
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(第469話) 庭木に名札 |
2005,11,27 |
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“例年、通りがかりの方から木の名前を聞かれる。そこで昨年、幹に札をつけた。「クロガネモチ、雌雄異株、実のなるのは雌株」。これを見た若い母親が子供に「お母さん木だよ」と教えているのがほほ笑ましかった。 私はよそで珍しい花木を見たとき、名前を知りたいと思っても気軽に聞けない。そんな私のような方のためにと思いついた札である。”(11月21日付け毎日新聞)
千葉市の秋葉さん(62)の投稿文。通りがかりの人に配慮する、自分のして欲しいことをまず自分からする。小さな行為ではあるが、こうした心遣いが人々の気持ちを明るくする。 今年娘の家が庭を整備し、いろいろな種類の木を植えた。最近の庭は外国の木ばかりでさっぱり名前が分からない。この話を伝えてやるか・・・・。 ちなみにクロガネモチは我が市の木で、我が家に3本の大きな木がある。今日は庭師に来てもらって剪定し、終日その下働きで疲労困憊。
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(第468話) 夢を持つ |
2005,11,26 |
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11月20日、東京国際女子マラソンで、高橋尚子選手(33)が会心の優勝を果たした。私はウォーキング中にこのことを聞いたが、本当にホッとし、よかったと思った。翌日の毎日新聞の記事の中から、高橋選手の言葉を抜き出してみる。 “「ここに帰ってきて良かった。2年前で止まっていた時間が進みそう」 「失敗したまま終わりたくない」 「東京で走らなければ何も始まらない」
「オセロゲームで黒を全部、白に変えられたかのよう」 「暗闇に入っても夢を持つことで、1日1日が充実する。皆さんにそのことを感じて欲しい」”
ボクは新聞情報くらいからしか高橋選手のことを知らないが、それでもどれも頷く言葉ばかりである。特に最後の言葉、暗闇に入って夢を持ち続けることは至難のことであるが、そんな状況の多くの人を勇気づけたことであろう。 見事な復活に、これからもいろいろなところで語られるだろう。注目していきたいと思う。
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(第467話) 父の枡席 |
2005,11,25 |
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大相撲が始まると、相撲好きだった亡き父ために、父専用の升席を作る話。 “テレビの前に座布団を敷いて父専用の「升席」を作る。そこには、父の写真を飾り、とっくり1本を供えて15日間相撲を見せることにしている。場所の初日に迎え火としてロウソクをともして、天国から父を迎える。千秋楽になると、今度は送り火をして天国へ送る。”(11月20日付け毎日新聞)
山口県防府市の竹重満夫さん(71)の投稿文。天国の父へのささやかな親孝行で行っていると言われるが、何ともほほえましい行事と思って紹介した。子供にこれだけ慕われている父親とは、それも息子さんにである、もちろんそれだけのことを生前にされたからであろうが、羨ましい限りである。それぞれの家庭にはそれぞれのしきたりがある。そんなしきたりは大切にしたいものだ。 11月18日の朝日新聞に“生徒から「おはよう、こんにちはの挨拶に何の意味があるのか、必要ないのでは?」と問われ、教師もその通りだと思った”という投稿文があったが、そんな人達の前では、この父の升席など全くの愚行になるだろう。でも小賢しい言葉より愚行の方がよほど価値がある。 行っている息子さんが71歳であることにもいささか驚きであるが、慕う気持ちはいくつになっても変わらないと言うことであろう。
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(第466話) もったいないばあさん |
2005,11,24 |
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今日は、今日の話を書きましょう。 夕方、昨日(11月23日)の毎日新聞を開いたら「もったいないばあさん日記」「真珠まりこ」と言う文字が目に入った。待てよ・・・これは今朝見たばかりの文字ではないか。 今朝通勤電車の中で、少し古いが、「清流」という雑誌の8月号を読んでいた。その中に「もったいないばあさん」と「真珠まりこ」さんの文字を見たのだ。初めて見た固有名詞であるが、その名の目新しさに、かなり記憶力の悪くなった頭であるがまだ記憶に残っていた。再び本を開いてみる。そして少し引用してみる。 “さらに真珠さんは気づいた。「もったいない」はものや知恵だけではなく、人間の生き方にもつながっていると。 「チャンスはあるのに、やりたいことをやらないのはもったいない。何でも人任せ、人頼みにしていて自分でできるのにやらないなんてもったいない。人間、ベストを尽くさないのはもったいないと思いませんか?」 真珠さんが、目を輝かせて言うもったいないからは、見習いたいほどの前向きな姿勢が伝わってくる。”(文・柏谷佐和子)
真珠さんは絵本作家で「もったいないばあさん」という絵本を昨年10月に発行され好評だという。そして毎日新聞では「もったいないばあさん日記」として連載が始まったようで、23日の新聞はその第2回目であった。「もったいない」という言葉はマータイさんの発言からたびたび使われるようになり、この「話・話」でももう何度も紹介済みである。絵本まであるとは知らなかった。 それにしても面白い、朝の夕方で1話書けた。これが数日離れていたら、新聞は素通りしたかもしれない。現に第1回目は目にとまっていない。
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(第465話) 白いリボン |
2005,11,23 |
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“「赤い羽根の知名度とまではいかなくても、寄付の選択肢のひとつになったら」。県内の民間非営利団体(NPO)関係者が、そんな思いで定着を期待するのが「白いリボン運動」。赤い羽根共同募金と同じように、シンボルの白いリボンを配って募金を呼びかけ、集まったお金をNPO育成に使おうという運動だ。 阪神大震災10周年を機に昨年度、神戸のNPOの呼びかけで始まった。”(11月17日付け中日新聞)
私もNPOに関係していながら、この記事を見るまで全く知らなかった。 NPOで財政基盤のしっかりしているところはまだわずかである。また立ち上げに苦労しているところも多い。そんなNPO育成のための募金である。愛知県にも実行委員会が設置されているようであり、今後呼びかけがあるのであろうか。 市民も行政も今後NPOに期待するものは大きいものがある。1人が1NPO
には係わるような時代が来れば、素晴らしい社会が期待できると思う。それが成熟した社会であろう。そのためにはまずNPOの育成が必要である。そのための募金である。発展を祈りたい。 インターネットで調べたら、平和運動の白いリボン運動があった。ホワイトバンドという運動もある。何でも募金に頼るというのは考えさせられるが、それだけに自分の道筋をはっきりさせておくことも必要であろう。
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(第464話) 悪魔の辞典 |
2005,11,22 |
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“英語で船のことをシップという。船ではないけれど、友情はフレンドシップである。 米国の文筆家のビアスは警句集「悪魔の辞典」で「友情」をこう説明する。「フレンドシップというシップは天気のよい日には2人乗れるが、悪天候には1人しか乗れない大きさの船」。”(11月17日付け中日新聞)
「中日春秋」というコラム欄からである。「悪魔の辞典」という、何ともおどろおどろしい題名の本は20数年前に買って、今も自宅にある。川柳の指導者の勧めで買ったのである。もう長いこと開いていないが、この記事を見て久しぶり開いてみた。 なぜ勧められたか忘れたが、はしがきを読んでみるとこんな文がある。 “真に本書を読んでいただきたい方々・・・・甘口の酒より辛口の酒を、感傷よりは分別を、ユーモアよりは機知を、俗語よりは品のある英語を、むしろとろうとお考えになる賢明な方々が・・・・”とある。辛口、分別、機知、品、こんな川柳を指導者は考えられていたのではないか、十分に思い当たる。今回開いて、今ごろ気づいた次第である。 この本には430ほどの言葉が紹介されているが、その中からもう2、3紹介します。 安心=隣人が不安を覚えているさまを眺めることから生ずる心の状態。 希望=欲望と期待とを丸めてひとつにしたもの。 労働=Aなる者がBなる者のために財産を獲得してやるひとつの方法。 慈悲=犯した罪を見つけ出された者が愛好するひとつの特質。
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(第463話) 自己推薦書 |
2005,11,21 |
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“大学受験を控えた娘が、志望校に提出する自己推薦書を前に苦戦している。高校生活は部活など頑張ってきたが、県大会入賞などの輝かしい記録はなく、書くことがないと困り顔だ。「私のいいとこって何?」と頭を抱える娘に、少し付き合うことにした。 「まず第一に、体が丈夫!」という私に、「他にないのぉ〜?」と娘。しかし、中学、高校とほとんど遅刻欠席がなく、学校に行きたくないと思ったことは一度もないという。心身ともに健康。これは誇りにしていい。「次に、素直で明るい!」「誰にでも優しい!」「いつも穏やか、周りをホッとさせる!」。 始めは苦笑いをしていた娘だが、久しぶりにたくさん褒められてうれしかったのだろう、最後には幼いときのようなとびっきりの笑顔を見せた。”(1月17日付け毎日新聞)
「まじかるママめーる」という欄の寺田裕美さんの文である。研修などで、自分の短所長所を書き出しなさい、といわれたことがあるがなかなか書き出せないものである。長所についても短所についても自己抑制が働くのであろうか、それとも気づいていないのだろうか。多分、自分のことは一番分からないというのが本当であろう。うぬぼれは困るが、自己嫌悪はもっと困る。信頼できる人から時折評価してもらえるといい。 寺田さんの娘さんの長所は素晴らしい。これだけ持ち合わせていたら県大会入賞などさしたるものではない。しかし、具体的でないだけに自己推薦書には書きにくいだろうな。そして、書いてもなかなか評価されないだろうな。
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(第462話) 納豆の思い出 |
2005,11,20 |
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ねばねば食品は血液をさらさらにするとかで、健康に良いと評価されている。モロヘイヤ、オクラ等あるがその代表は納豆であろう。今日は気楽な話をひとつ。 11月15日付け朝日新聞に一宮市の高橋さん(70)の納豆に関する投稿文があった。知人Aさんについての思い出話である。 “Aさんは、昭和15年の春、小学校を卒業すると、東京の商家へ奉公に行きました。奉公先へ着いたその夜のこと。「納豆は好きかね」と尋ねられ、お正月にしか食べさせてもらえなかった甘納豆を思い出して、「はい、大好きです」と答えたそうだ。 ところが、翌日の朝食には、今まで見たこともない変なにおいのする食品がついていました。それが、納豆であることを先輩に教えられたAさんは、昨夜「大好きです」と答えたからには食べないわけにもいかず、目をつぶってご飯と一緒に飲み込んだそうです。私はこの話を聞いたとき、初めは大笑いをしましたが、そのうち涙が出ました。” ボクも納豆とは甘納豆のことだとかなりの年まで思っていました。そして、甘納豆に思い出があります。小学校の遠足では、皆いろいろなお菓子を持ってきていたのですが、ボクはいつも甘納豆だけでした。少し寂しくも思いましたが、好きでしたし、納得していたと思います。このねばねばの納豆を初めて食べたのは多分就職してからでしょう。そして、今でも苦手です。妻が健康を思って盛ってくれますので、いつも黙って食べています。 高橋さんが涙されたのは、昔は小学校を卒業すると、親元を離れて働きに出たことにです。ニートと呼ばれる現代の若者たち始め、この違いを時代の違いとだけで言っていいことでしょうか・・・・今日も最後は気楽な話といかなかったかな・・・・。
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(第461話) 咀嚼の効果 |
2005,11,19 |
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先日高校全体の同窓会があり、還暦の歳が当番ということで参加した。その同窓会で、同級生の金沢大学口腔外科教授の山本さんの講演があった。高校卒業以来初めて会ったが、かなりソフトな感じになっていて、話も上手で面白く、分かりやすかった。さすが教授である。講演は「生活習慣病と咀嚼」という内容で、この「話・話」にふさわしい話でもあるので、いただいた要約のプリントから「咀嚼の効用」の部分を紹介します。
“咀嚼の効用「卑弥呼の歯がいーぜ」
ひ:肥満防止(一口30回噛むことで過食前の満腹中枢作動) み:味覚の発達(唾液アミラーゼが穀類の甘みを誘導)、味蕾刺激) こ:言葉の発達がはっきり(咀嚼筋、表情筋の発達) の:脳の発達、刺激(噛むことで脳の局所血流量の増加=ぼけの防止) は:歯の病気予防(虫歯、歯周病、顎関節) が:がん予防(唾液中の消化酵素等に解毒、抗癌・抗菌作用) い:胃腸の働きを促進(噛むことで胃液、膵液の分泌を促進) ぜ:全身の体力向上・全力投球(一流スポーツ選手は噛む力が強い)”
ともかくよく噛むこと、噛むとは強く噛むことではなく噛む回数を増やすことを力説された。噛むことが肥満防止になることはよく聞く話であるが、言語の発達、がん予防効果は知らなかった。ちょうど11月14日の毎日新聞に、噛む回数が減少して顎が未発達になり、日本語が危ないという記事が出ていた。今の子供が、口がきちんと開けて話せないほどになっているとはびっくりした。 高齢者では歯が残っている人ほど知的・肉体的活動が高いという話もあり、同級生からせっかく聞いた良い話は実行しなければなるまい。
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(第460号) 主婦は太陽 |
2005,11,18 |
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11月14日の朝日新聞の投稿欄で素晴らしい文に出合った。江南市の主婦・安藤さん(41)の文で、全文を紹介したいところだが一部としておく。 “私がイメージする主婦とは、例えるならば「太陽」だ。心身ともに家族を支える一家のムードメーカー、元気の源だ。また器(環境)の変化に自在に合わせられる「水」でもある。妻として嫁として母として、その時々のニーズに応じて、しなやかに役割をこなしていく何でも屋だ。更に主婦は「養分」だ。日々、夫や子どもたちに与えた「愛の栄養」は彼らの心身に摂取される。”
『原始、女性は太陽だった』
という平塚雷鳥の有名な言葉があるが、安藤さんの文はまさにそれに匹敵する。これだけの自信、自負を持って主婦業をこなしてみえることが素晴らしい。男女平等、機会均等など議論がかまびすしいが、ボクには何か方向が違うのではないかという気がして仕方がない。いろいろな考え方があり議論が止まらないと思うが、ボクの持論を簡単に書いておきます。 男には子供は産めないし、乳もでない、生理もない、男女に性差があることは誰もが認められると思います。それを認めながら男女が同じことをするには無理矛盾があります。ボクは女性が頑張ることは、男性と同じことをすることではなく、女性しかできないこと、女性が得意なことの価値を社会としてもっと高く評価させることだと思っています。そして、まず自分自身を評価することです。そう思っているから、安藤さんの意識は素晴らしいと思うのです。こんな意識を持って主婦業をすれば、本人も家族も幸せだ。
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(第459話) 剣士の支え |
2005,11,17 |
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何気なく読んでやり過ごしてしまった、11月3日に行われた日本剣道選手権の記事。それを11月12日付けの中日新聞の記事からもう少ししっかり読めばよかったと後悔した。
“頂点へと導いてくれたのは、妻の一言。「2位でも3位でも、私は、あなたが朝から晩まで頑張っている姿を見ています」”
剣道日本一を決める第53回全日本剣道選手権は3日、東京・日本武道館で行われ、原田悟6段(32)が通算9度目の出場で初優勝を手にした。原田選手は5年連続9度目の出場で、昨年に続く通算3度目の決勝進出。平成8年の初出場以来、2位2回、3位3回を収め「最も賜杯に近い男」と評されていたという。 “昨年の大会も決勝で敗退。翌朝、気力を使い果たして立てなかったとき、さりげなく妻が声をかけてくれた。戦意を再び呼び覚ましてくれるような言葉だった。何げなさの裏に、励ましを感じた。「もう心のすきはつくらない」。 優勝を決めると、「支えてくれた人に感謝したい」と繰り返した。”
これだけ上位に食い込みながら優勝できないと、自分には縁のないものとあきらめるところであろうか。「できる!、頑張れ!」という表向きの言葉より、さりげない一言に勇気付けられることも多い。信頼する連れ合いならなおさらであろう。
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(第458話) 愛の儀式 |
2005,11,16 |
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愛の儀式、つまり結婚式の変遷について、国学院大学・石井教授が11月12日つけの読売新聞で簡単に書かれていた。 それによると、明治時代に当時の文明国で行われていた結婚式を意識して神前結婚式が始まり、それ以前は仲人が結婚式を司る人前式であった(その明治時代も、紀宮様の結婚式が行われた昨日の新聞によると明治35年という)。それが1990年頃に神前式より教会式が上回るようになった。いまは7割が教会式で、神前は2割弱であるという。そして、次のように書かれていた。 “そしていま、第3の波が静かに勢力を蓄えているように思えてならない。レストランウェディングなど、宗教者を介さず、来客をもてなすことを考えて行われる式が増加している。たとえ一時であったとしても、自分たちを超えた何らかの聖性の力を借りることなく、安定した人間関係を続けていくことができるだろうか。”
日本は古来神前式だろうと思っていたので、神前式の前は人前式であったということに驚いた。それも神前式の歴史は浅いのである。確かに、時代劇を思い出してみると人前式である。今回の文はこの紹介のつもりであるが、蛇足ながら私の気持ちも記しておきたい。 私には神前式も教会式も教授のいわれる「たとえ一時であったとしても、自分たちを超えた何らかの聖性の力を借りること」に何か違和感、奇異があった。そして、この紹介により、日本人の長い伝統として人前式ということに意を得た。ボク自身も娘2人も人前式であったのである。 信じてもいない聖性の力より、身近な人々の前の儀式の方が意味があると思ったのは奢りであったろうか。しかし、ボクらは35年ほとんど危機もなく過ごし、そして娘らも今のところ特に問題もなく過ごしている。聖性の力が及ぶとしてもこれ以上の期間には及ばないだろう。いずれにしろ最も大切なのは、相手に対する思いやりである。
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(第457話) 里親 |
2005,11,15 |
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“自慢してよろしいでしょうか。教養ではありません。教養は見せびらかすもの、学問は地道に積み上げるもの、というのが私の主義です。私の自慢というのはひとつだけです。ユニセフ寄金をしていること、フォースタープランでフィリピンの子どもの里親になっていることです。どっちも子供が対象ですからひとつと数えて、私の人生で自慢できることはこれだけです。”(11月8日付け中日新聞)
北村想さんの「月が照っても青いから」からです。この文章を読んで、今日は私も自慢してみようと思います。実は私もフィリピンの子供の里親になっているのです。1996年6月からですからもう始めて10年になりますが、里親になるのは子供が小学生の間ですので、今の子供は2人目です。 制度を紹介します。私が参加しているものは「NPO法人ワールド・ビジョン・ジャパン」が行っている「チャイルド・スポンサーシップ」と言うものです。この制度に応じると、子供が紹介されます。月に4500円を振り込みます。このお金は子どもの教育、食物、健康診断等に当てられるようです。子どもの写真、家族の様子、時折、学業成績や生活状況が知らされてきます。また、クリスマスなどにはカードを送ったりしますと、お礼の手紙が届いたりします。それだけの里親です。 このことは他で一度話したきりですので、今回で2回目ですが、1回目の時は「ボクはフィリピンに隠し子を持っている」と話して皆をびっくりさせました。 この制度の問い合わせ先を書いておきます。 NPO法人ワールド・ビジョン・ジャパン 東京都新宿区百人町1−17−8−3F
(Tel) 03−3367−7251
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(第456話) がんばる勇気 |
2005,11,14 |
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「第25回全国中学生人権作文コンテスト」の愛知県大会の優秀作が、11月5日付け中日新聞に掲載されていた。岡崎市の中学1年・加藤彩乃さんの文からほんの一部を紹介します。加藤さんは、二分脊椎という難病を持って生まれ、いまも歩くことができない学生です。
“私が一番つらいことは、いつも助けてもらっている友達に、何一つ助けてあげられないことです。助けてもらうばかりでお返しができない、とてもつらいです。 でも、今年の夏休みも近づいていたある日のこと、こんなことがありました。階段を上がる手助けをしてくれる友達に「いつも迷惑をかけてごめんね」と言いました。そのとき、友達が「ううん、彩乃ちゃんからはいつもがんばる勇気をもらっているよ」と言ってくれたのです。何一つ友達の役に立っていないと思っていたのに、少しでも友達の役に立っていることを知り、無性にうれしかったのです。「がんばる勇気」。この言葉を聞いたとき「ありがとう」と友達に素直に言えました。”
ボクはこの中学生の文から2つのことを学びました。1つは自尊感情です。加藤さんは人に親切を受けるばかりではなく、人の役に立っているという事実を知り、非常に喜んでいます。そして生きる価値も得ています。これが第450話で紹介した自尊感情でしょうか。ボクもそうですが、ほとんどの人間は何をするにもまず自分の利益を考えると思いますが、でもそれだけでは生きられないのです。どこかで役に立っている、あてにされていると知って生き生きと生きていけます。 もう1つは、どんな人でも真面目にやっていれば何か人の役に立っていると言うことです。この新聞にはもう一つの作文が紹介されていますが、それは障害者の子が母親に大きな力を与えている話です。人間社会は実にうまくできていると思います。どこかで与える部分があるのです。ただ真面目に生きていけばいいのです。 では、真面目に生きていなかったら人の役に立つことはないのでしょうか。ボクは名うての悪でない限り、完全な不真面目人はいない、どこかに真面目な部分があるはずだと思っています。
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(第455話) 森へ行きましょう |
2005,11,13 |
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「歴史を訪ね、自然に触れ、友と語らう」、これはウォーキングを端的に表現したボクの造語であり、口癖である。先日、自然に触れの効用を紹介した文にであった。
“フィトンチッド(樹木の芳香)の出るヒノキの森って本当に癒しの効果があるのかしら?実験してみた。学生10人を森に行きましょうと誘った。椅子を持ち込み、1時間放っておいた。みんな、森の息吹を感じ生命を見つめ、大きく人生を考えた。就職活動の悩みが吹っ切れた学生もいる。免疫力は高まった。(中略) 人類は歴史のほとんどを森で過ごしてきた。人間にとって森林は自然の一部に戻れる場所。DNAが目覚め、活性化する。毎日1時間の森林の散策でがんを克服した人もいる。元気になりたい人は森へどうぞ。”(11月4日付け毎日新聞)
日医大・高柳助教授の文である。日本社会はもう長いこと都会に人口が集中し続けている。早い社会の変化と複雑な人間関係に、ストレスはますます高まっていく。そんな中、フィトンチッドによる森林浴の効用が説かれてきた。高柳助教授はその効用を確認するための実験をされ、フィトンチッドの効果により免疫力は高まったといわれている。ウォーキングは森林浴の機会も多く、その効用に大いに意を強くするところである。 しかし、どのように効果測定をされたのだろうか、そこをもう少し知りたいところだ。
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(第454話) 足の裏の飯粒 |
2005,11,12 |
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まずはてな?と首をかしげ、そして知ったとき、実に言い得て妙と感心する言葉がある。面白くてつい話したくなる。「足の裏の飯粒」もそんな言葉であった。
“新内閣の顔ぶれが決まった。誇らしげに赤じゅうたんを踏む面々を眺めていたら、「末は博士か大臣か」という言葉を思い出した。大臣は今でも立身出世の代名詞だが、博士はごく一部を除いて不遇である。と説明しても、「知的エリートが不遇なもんか」と思う人が大半かも知れない。 日本では年間1万4千人の博士が生まれている。大学院に5〜6年通って博士号を取るが、約3割が仕事にありつけない。いまや博士号は、「足の裏の飯粒」に例えられる。その心は「取らなきゃ気持ち悪いが、取っても食えない」”(11月2日付け毎日新聞)
毎日新聞の元村記者の文である。これは博士号に関して書かれた文であるが、どうもいろいろな資格でこの言葉は使われているようだ。また現在、リストラや定年後に備えて、いろいろな資格の取得が勧められている。そんな社会をにらんで民間資格の創設も盛んである。そして多くは足の裏の飯粒のようである。飯の種になっているのは、そんな資格を与える業界だけであったら全くの皮肉である。 有用な資格は実務、経験が伴っての資格だろう。学校や机に向かっただけで取れる資格では、採用する側も信頼していないのではなかろうか。社会で有用なものは一朝一夕でいくわけはない。 実は怠惰だけなのだが、ボクはこんなことを理由にして何の資格も取るつもりがない。ボクにはあるのかないのか分からぬ「中年文化(第106話)」「年輪力(第122話)」だけである。
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(第453話) 自尊感情 |
2005,11,11 |
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人間に大きな力や勇気、元気を与えるものは「恋」ということを第449話で話題にしたが、もう一つ考えさせられることを新聞で見つけた。
“人間は、自分がいることが誰かに役立っているという認識を持って、初めて生活に張りを持てる生き物である。最近は「自分探し」と称し、お遍路にまで出る若者が出現しているらしいが、時間の浪費に思えてならない。「自分」というものは、一人きりなって内省を深めたところで見えてこない。「私」が周囲から何をすることを求められているのかを、コミュニケーションを取ること通じて理解する以外に、術はない。 高齢者にとって、悠々自適の暮らしなど絵に描いた餅にすぎず、いざ実践してみるとすぐに飽きてしまう。社会的な貢献を果たせることによってしか、生きがいは生まれてこない。私は、その根底にある意識を「自尊感情」という言葉で表現できるものであると考えている。それなしに私たちが、正気を保って生き続けるのは大変困難であるとすら感じている。”(11月2日付け中日新聞)
京都大の正高教授の文である。退職して夢であった自由な時間を持てたとき、多くの人がすぐに退屈をしてしまうことはよく聞く話である。そして、再び勤めに出ている人もたくさん知っている。 人間何かの「為」に行動する必要があるうちは、その「為」に行動する。生活の為に働く、家族の為に食事を作る、等々。しかし、この為が何の為かが重要だと思う。恋の為、金の為、名誉の為、これらは自分の為である。この為を更に高めたものが、正高教授のいわれ「自尊感情」であろう。 退職はこの為を失うことである。そしてすぐに退屈になるのである。退屈は人間にとって最大の難敵である。しかも、小人閑居して不善を為す、この退屈を紛らすため「自尊感情」を大いに発揮できることをしたいものだ。
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(第452話) 卵かけご飯 |
2005,11,10 |
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絵に描いたような真面目な話ばかり続けているので、今日は気楽な話にしましょう。
“「第1回日本たまごかけごはんシンポジウム」が29日、島根県雲南市で始まった。30日まで。地場産業の米作りと鶏卵を見直そうと市民グループが企画。「たまごかけごはん楽会(がっかい)」を設立し、栄養学や歴史などの視点で講演会を開いた。”(10月30日付け毎日新聞)
あまりの面白さに、インターネットを開いてみた。シンポジウム実行委員会のホームページもあり、それを開くと、シンポジウムは “一杯のたまごかけごはんに秘められた悲喜こもごものエピソードや思い入れ、家族で囲む食卓、米飯食への想い、卵の思い出、又スローライフ・スローフードの考え方、食育、歴史学・民俗学など、様々な見地から思う存分語り、表現して頂くことにより、日本古来の食の素晴らしさ・家族・ふるさとなど忘れがちなものへ目をむけるひとときを持つこと、そしてシンポジウムの事前事後を含め米食の普及、鶏卵の普及をグランドテーマとして発信することを目的としています。”とある。 卵かけご飯から、これだけ真面目なテーマを見つけ出すとは全く痛快だ。そして、10月30日を「たまごかけごはんの日」と定められたようだ。また、卵かけご飯でインターネットの検索をしたら、115,000件と表示された。何が書かれているか知らないが、日本人にはそれだけ卵かけご飯に愛着のある人が多いのであろう。かくいう私もそうで、昨年12月13日の「(第141話)白い卵」でも書いたが、卵には思い入れがある。そして、今でも私にとって卵かけご飯は贅沢品である。
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(第451話) 心の英雄賞 |
2005,11,9 |
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“体調を崩していた私は、3日ぶりに外へ出ました。停留場へ向かい、振り返るとバスが後まで来ていますが、走る体力がありません。間に合わないと思いながら見ると、バスは私の歩く速さに合わせてゆっくりと走りました。停留場に着くと同時にドアを開けてくれた運転手さんに、礼を言いながら乗りました。
米国で大成長している航空会社では、人目につかない場所で会社に貢献している陰の功労者に贈る賞があるそうです。「心の英雄賞」。あの運転手さんに贈りたい。”(10月27日付け毎日新聞)
東京都の主婦・小池さん(51)の文です。「心の英雄賞」とはまた味な賞である。この話のように、本当に小さな心遣いが人の心を打つ。できそうでできない行動である。
しかしながら思う、他の乗客はどうであったろうかと。多分ほとんどの方は、自分のことのようによかったと思ったであろう。しかし、その中で1人でも、1人のために大勢の人を遅らせたと不平を言ったら、そして会社にでも抗議したら、この運転手さんの行為は逆に責められるであろう。そして、もう行われない。今の世の中、それが多すぎるのだ。不平や批判は、それがどのような影響を及ぼすか、独りよがりではないか、よほど注意しないといけない。世の中99人の賞賛より、1人の中傷の方が影響が大きいのである。それだけに「心の英雄賞」の意味は大きいのである。 この文にはもう一話、足の不自由な人への配慮の話があったが、長くなるので省略した。
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(第450話) 残飯持ち帰り |
2005,11,8 |
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“私は小食なので、勤務先で食べる配達弁当のご飯が多すぎる。以前は捨てていたが、ある日新聞で、飢餓でやせ細った子どもの写真を見てから、残飯はラップで包んで持ち帰り、夕飯で食べることにしている。さらに、その残飯1食分を50円と換算し、年200食として1万円を年末に海外助け合い義援金として送っている。 お米を無駄にせず、ダイエットにもなり、わずかでも人助けになるなら、一石三鳥の効果ありと思っている。”(10月26日付け毎日新聞)
京都市の公務員・木村さん(60)の投稿文。ボクも以前、宴会などで残った料理をパックに詰めてよく持ち帰っていた。妻からそんな見苦しいことは止めてくれといわれて止めた。しかし、ケニアの環境副大臣・マータイさんが日本には「もったいない」という素晴らしい言葉がある、と愛知万博を機会に発言してから「もったいない」が話題によく上るようになった(第231話参照)。そしてボクは、持ち帰りを機会があれば再開した。妻にも「食料を無駄にしてはいけないのだ、輸入国日本にそんな尊大は許されない」と、堂々といっている。 木村さんがさらに立派なのは、1食50円として助け合い義援金として送っていることである。そして、木村さんは一石三鳥といってみえるが、お米を無駄にせずは、もう1歩先をいえば、ゴミ処理を不必要にしているのである。日本にとってゴミ処理問題は大きな問題だ、一石四鳥だ。
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(第449話) 恋しい主治医 |
2005,11,7 |
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“「とりあえず5年頑張りましょう」胃がんの手術を受けた私は、病院の主治医の先生にそういわれて退院した。 あれから6年。今では「秋の七夕」と呼んで、恋しい人との再会を楽しむかのように年に一度、先生に会いに病院に向かう。 先日、ある雑誌の「全国がん医30人」という記事に、先生の名前を見つけた。名誉ある先生の手術を受けることができた私は幸せだ。”(10月25日付け読売新聞)
新潟県の橋本さん(50)の投稿文からです。いろいろな働きがあったろうとは思うが、主治医を恋しい人とまで呼ぶその力が、橋本さんに6年目の秋を迎えさせたのではなかろうか。人間に大きな力や勇気、元気を与えるものは、家族、名誉・・・はては金など、人によっていろいろであるが、やはり万人に大きなものは恋人であろう。恋人と思える人、ものを持つことが大切である。さすががん医30人である。
恋などという言葉はもうボクの辞書にはない。恋は若さの秘訣、人間老いたら恋をしなさい、とはよく言われることである。もう若さでは勝負できなくなったこれからこそ、恋の力も借りて生き抜かなくてはなるまいか。ボクも辞書にはないなどと言っていず、老いらくの恋をどこかに求めるか・・・。
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(第448話) 過程を楽しむ |
2005,11,6 |
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朝日新聞に「玉村豊男のスローライフは忙しい」という欄が続いていた。今まで読んだことはなかったが、10月25日の(その7)のとき「過程を楽しむ」という文字が目につき読んでみた。
“私の農園に来てブドウの畑を見た人は、判で押したように、「収穫が楽しみですね」という。 みんな、なんで収穫のことばかり気にするのだろう。確かに収穫はなければ困るし、栽培の目的が収穫であることは間違いないが、楽しみも苦しみもひっくるめた農業のやりがいというものは、収穫にいたるまでの日々の営みの過程にあるのではないか。 収穫は結果である。結果だけを求め、途中の過程を楽しめなかったら、毎日の労働になんの意味があるというのだろうか。”
「人間興味のあることに目がいく」、当たり前のことであるが何かボク自身が実験台に立っている気分だ。なぜなら、今まで読んだことのない欄だが、ボクの持論である「過程を楽しむ」という言葉でいっぺんに興味がわくのだから。 社会や会社、他人は過程より結果を重視する。場合によっては結果がすべてかも知れない。しかし、行っている本人にはほとんどの時間を過ごす過程が重要なのだ。以前からこういう持論であるので「結果だけを求め、途中の過程を楽しめなかったら、毎日の労働になんの意味があるのだろう」という言葉は我が意を得たりである。いくら努力しても結果が悪いこともある。その場合、その努力はなんの価値もなかったのか。他人には価値がなかったかも知れないが、本人には大いに意味があるのだ。そう思えなかったら人生そのものが無意味になってしまう、どうせ最終結果は死であるのだから。結果は結果でしかない、そう思って過程を大切にしたいものだ。
特に家庭菜園など成長過程が楽しめなかったら、買った方がよほど安上がりだから、やること自体が無駄である。
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(第447話) 心を伝える |
2005,11,5 |
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“「○○という居酒屋を知っていますか。朝早く行ってみてください。きっと驚きますよ」。友人に言われ、何だろうと思いながら、翌朝散歩がてらに行ってみた。確かに驚いた。 メニューを書く黒板に文章が綴ってあった。書き手の心が伝わってくる文章であった。「このコラムは毎日書いてあるんですか」「そうです。昼ごろ消されてメニューに変わるみたいですよ」という会話が私の耳に聞こえてきた。”(10月25日付け読売新聞)
川越市の武山さん(56)の投稿文です。こういった類は寺院などで時折見かけるが、普通ではなかなかできることではない。居酒屋さんのメニュ−板とはまた面白いし、素晴らしい。文章の例がなかったので、どんな内容か知れないが「心を伝える」と書かれているので、さぞ身にしみることが書かれているのであろう。毎日というのがまた素晴らしい。世の中「一隅を照らす」人々で成り立っていることをつくづく感じる。 武山さんの文は更に続く。 “ふと教員時代のことを思い出した。私は毎日、朝4時に起きて学級通信を書き、学活の時間に配っていた。初めのうちは誰も読んでくれず、ゴミ箱に放り込まれているのを何度か見た。それがいつしか静かに読んでくれるようになった。だから、修学旅行の時も母が亡くなった日にも、書くことを忘れなかった。”
武山さんも似たようなことをやってみえたので、こうした行為をより強く感じられ、その苦労が分かり、こうした投稿になったのであろう。またその喜びも知ってみえるのだろう。武山さんも素晴らしい。ボクの「話・話」は同類にはならないが、頑張りたい。
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(第446話) 竹馬 |
2005,11,4 |
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“5歳の息子が「竹馬が欲しい」と言いだした。おもちゃ屋さんで1万円也と、ちょっと高い。「ママが作ったるわ」と竹を探しに裏山へ。あった、あった、竹馬にぴったりの竹が!翌日、午後出勤の主人がホームセンターで竹馬の台(足を乗せる部分)の木を買ってきた。 木を紐で結ぶのに悪戦苦闘している私に、近所のおばさんが「こんな緩い紐の締め方ではあかん。こっちを持っといたるから、ここを引っ張って」と手助けしてくれた。 幼稚園から帰った息子が、さっそく乗った。ガタン。足を乗せた木の板が滑り落ちた。前のおじさんが出てきて「こんな紐だけではあかん」とクギを打ってくれた。”(10月22日付け毎日新聞)
松阪市の大谷さん(40)の投稿文です。文を読むと、子どもの竹馬を作るのに、竹を分けてくれたおじさん、竹と木を切ったパパ、台の取り付けを手伝ってくれたおばさん、おじさん、そして大谷さん、5人が係わったことになる。大の大人がこんなに係わって、手間を勘定すれば買った方が安いのではないか。でもこういう話が良い、楽しくなるではないか。そして、お金で何でも済む時代の今こそ、子どもにはこんな接し方が必要ではなかろうか。この息子さんにもきっと良い思い出になったことだろう。 ボクの孫もまもなくこんな要求をするだろう。その時、娘夫婦はどうするだろう、ボクに出番はあるだろうか、この文を読んで楽しみになってきた。
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(第445話) ちょっと得 |
2005,11,3 |
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「話・話」のこれまでの引用をみると、一般読者からの投稿文がかなり多い。世間の良い話を拾い集めようとするボクの意図から、そうなるのは自然かもしれない。しかし、ここにはあまり取り上げない批判的な文には、1つの例や一部のことからさも全体的のような発言も多い。例えば「今の若者は・・・・」とか、そう言えば「こんな高齢者もある」と反論する。中日新聞では先日来、箸の使い方を見て人間性が分かるとか、そうではないなどの投稿が続いている。 そして、10月22日の中日新聞に、この箸論争から春日井市の主婦の方がこんな文を書かれていた。 “靴を脱いだらそろえる人にも同じように思います。しかしだからといって、変わった箸の使い方や乱暴な靴の脱ぎ方をする人を、駄目な人間だとは思いません。美しい箸の使い方や靴をそろえる人を見ると、ただ感じが良いと思うだけです。そうしている人は、人からそんなふうに見られてちょっと得をするだけではないでしょうか。人間性をうんぬんするほどのことではないと思います。”
この主婦の方の意見に賛成で、箸や靴の使い方から人間性までいうのは飛躍しすぎだ。しかし、ボクはこの「ちょっと得」「ただ感じがいい」が重要だと思う。こうした積み重ねが重要なのだ。僕ら凡人にできることはそういう類なのだ。 人間性うんぬんをいわれた人は、言葉のあやで使われた気がして、本気で反論することではないと思う。一つの行為で人間性まで問えることと言えば何があるのだろう、ボクにはすぐに思い浮かばない。 そして、短い文章は本人の意志と違う方向に読み取られる恐れが多分にある。そういう意味ではこの「話・話」などは、読者が賢明だから今のところ問題を起こしていないが、危険きわまりない。 箸使いについては、昨年8月11日(第33話)で話題にしている。
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(第444話) 奥の細道 |
2005,11,2 |
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日本ウオーキング協会では、江戸時代の俳人松尾芭蕉がたどった道を中心に、10年半かけて2500キロを歩き抜く「平成・奥の細道ウオーク」が2003年4月に東京をスタートして始められた。毎年4,9,10月に2、3日ずつ歩く。13年10月まで計33回、97日間歩いて「奥の細道」と同じゴールの岐阜県大垣市を目指している。ボクの知り合いの何人もが参加している。 10月21日の日本経済新聞に、同紙の土田編集委員が東京から大垣まで1700キロあまりの「奥の細道」を5ヶ月かけ歩き通したことが記事になっていた。その感想文から紹介したい。
“「奥の細道」を歩いて感じたことは@日本は狭くないA国土は緑一色B地方は貧しくない・・・・でいずれも日本の「常識」に反している。いうまでもなく、新幹線や高速道路、航空機が四通八達した現代の時間距離を尺度にすれば、日本はどんどん狭くなる。しかし、歩行という人間の原初の物差しで測れば広大で、芭蕉の時代には国土が狭いと感じていた人間はいなかったに違いない。” さらに、大都市を一歩離れれば緑したたる瑞穂の国を実感できるし、地方ではシャッター通りも目立ったが、貧しいとは感じなかった。それはその土地で暮らしていることに強烈な自信と誇りを持っているから、と記している。そして最後に、 “菅原静江さん(75)から「あんたは現代の三種の神器の持ち主やねえ」と言われた。三種とは「ヒマ」と「カネ」と「健康」。うまいこと言うな、と感心した。”
同じものを見ても車や交通機関を利用しての見方と、歩いての見方が大きく違うものだ。この土田さんの見方からしても、歩いてみたときに豊かさを感じることが知れる。それは車では見落としがちのものも、歩いて見れば発見するのである。こんなことからも歩く効用を知る。ウォーカーは三種の神器の持ち主だ。ウォーカーバンザイ!。でも、ボクが奥の細道ウォークに参加していないのは残念だ。
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(第443話) 養生 |
2005,11,1 |
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ボクは建設事業に携わってこの歳まで来た。どの分野でもそうであるが、その道の専門用語がある。長年やっているうちに、何が専門用語で、何が一般の言葉か分からなくなってしまう。私のホームページに「欄干の語る町物語」というページがある。最初「高欄の・・・・」と書いたら、分からないといわれた。そして「欄干」なら分かると分かった。今でもボクには高欄が業界用語だと思えない。10月20日の毎日新聞の投稿欄、静岡市の主婦・牧さん(56)の文を読んでいて、思わず笑ってしまった。
“外壁のリフォームをすることになり、業者の見積書の養生費なる項目に首をかしげた。夏限定のものなのか?と。この暑さでは致し方ないかと、お願いすることにした。 我が家は西日がたっぷりと当たる。それでも職人さんはいやな顔もせず、黙々と作業をしてくれる。冷たい飲み物を勧めると、とても遠慮がち。「養生費ゆえ」と思ったりした。 でも違っていた。塗装が完了した日のことだった。「明日は養生をはがします」「エッ、そのことだったんですね」”
建設事業は一般の方に話をする機会が多い。注意はしているのだが、知らないうちにこの場合のように、業界用語を使っていることがあるだろう。この文を職場で示しながら、更に注意を促した。 さて「養生」とはどんな意味でしょうか、考えてもらうことにしましょう。
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