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第14号  2005年6月


(第333話) 趣味は草むしり 2005,6,30
 “「趣味は草むしりです」なんて言うと、ほとんどの人が「エーッ」という顔をする。そんなことウソでしょう。好きこのんで草むしりをする人なんていないでしょう、と言うことらしい。でも嫌いじゃないのだから仕方がない。
 気持ちが沈んでいるとき、イライラしたときなど、草むしりをすると、頭が空っぽになり、終わるころはすっきりしている。庭もきれいになるし、まさに一石二鳥だ。
 先日、ある有名な女優さんが「私の趣味は草むしりです」と言っていたのを聞いて、なんだかうれしくなった。変わり者は私だけじゃなかったのだ。よし、これからは堂々と言うぞ。「私の趣味は草むしりです」”(6月21日付け読売新聞)

 富山市の竹腰さん(61)の投稿文。あなただけじゃないですよ、ボクもです。でも、最近はのんびり草むしりを楽しむことがないな・・・・。あまりの草に、耕耘機や刈り払い機、万能で必死に格闘している。

(第332話) 1年1回 2005,6,29
 “愛知県岡崎市で今年、難しいとされるササユリの人口栽培が成功し、切り花2千本が出荷された。
 ササユリは、乱獲や野山の環境変化で激減した。「もう一度咲かせてやりたい」。地元の農業鈴木さん(75)は20年前、たった一人で人口栽培の挑戦を始めた。「花は年に1回しか咲かんから、人口栽培に挑むチャンスも20回だけ。球根が腐った理由を突き止めても、それを生かせるのは1年後。農業ってそういうもんなんだわ」
 12年前からは同市農業バイオセンターが、土壌改良など技術面で鈴木さんをバックアップ。農家の仲間も加わって試行を続け、今年ようやく切り花の出荷にこぎつけた。”(6月21日付け中日新聞)

 1年1回のチャンスを20年続けてやっと成功。待つことに気が遠くなってしまう。こうした地道な努力を続けている人があって世の中保たれている。ありがたいことだ。ボクもササユリを一輪一輪と里山で出会ったことがある。あの時のうれしさ、あの可憐な装い、あの甘い香り、ボクの好きな花だ。

(第331話) 漢字文化 2005,6,28
 “「漢字文化を回復することができれば、東アジアの相互理解の道が容易に生まれてくる」。文化勲章を昨年受章した文字学者で立命館大学名誉教授の白川静氏(95)は、11日に京都のホテルで開かれた受賞祝賀会のあいさつで、持論を展開した。
 白川氏は、戦争が絶えなかったヨーロッパに比べ、先の日中戦争を除けば、東アジアではほとんど大きな争いはなかったと指摘。その理由を「漢字が、民族と民族の間をつなぐ役割をしていた」からとした。
 白川氏が寄付した5千万円を基にして母校の立命館大学に設立された「東洋文字文化研究所」を拠点に「白川文字学」の海外普及などに取り組む意向を明らかにした。
 「ご覧の通りの高齢だが、自分では死ぬ気は毛頭ない」と会場を沸かせた。”(6月20日付け中日新聞)

 何が相互理解に役立つのか、漢字文化が役立つのであればぜひ頑張って欲しい。それにしても95歳で毛頭死ぬ気がないとは・・・ボクなど死んでも死ぬとは言えない。

(第330話) ロングランの秘密 2005,6,27
 “6月の中日劇場公演はスーパー歌舞伎「ヤマトタケル」。白状すると、19年前にこの作品のことを知って、いささか不安を感じた。「ヤマトタケル」ほどの大がかりな芝居になると、一つ間違えると手ひどい傷を受ける。
 結果、この芝居は成功をした。リーダー格の市川猿之助さんが気力体力とも充実していたことや、作者の梅原猛さんが満を持していたこともあろう。制作の松竹にしても、勇気のいる決断だったはずだ。天の利、地の利が重なって名作が生まれた。初演で大ヒットした「ヤマトタケル」は再演のたびに話題になり、21日の昼公演では700回を記録する。
 ところでロングランを続けるようなドラマには共通点がある。主張とでもいおうか。たとえば伊吹山の場で山神が「人間は傲慢になりやすい」と叫ぶ。これは人類への警告と言ってもいい。スーパー歌舞伎には、それとなくそんなせりふがちりばめられている。
 今年、名古屋ではもう1本、700回公演を超えた舞台があった。劇団四季の「ライオンキング」である。6月8日に2周年を迎えた時点で732回。「ライオンキング」も、ずいぶん大がかりなミュージカルである。そして、ここにも主張がある。たとえばそれは輪廻の思想だろう。かと思えば敵役のライオンが「真実は見る者の目によって違うのだ」などと言う。考えてみるとすごいせりふである。”(6月20日付け中日新聞)

 「ヤマトタケル」は、念願かなって一昨日、25日にやっと妻と観ることができた。すごい迫力だ!。伝統歌舞伎を見なれた私には新鮮に映り、考えさせられた。猿之助さんも先駆者だ。「ライオンキング」も来年1月9日までと言うから、ぜひ行かなくては。

(第329話) 主語すり替えの術 2005,6,26
 “先日、仕事の件でAさんより電話。「あの件、Bさんが早く決めろとうるさいの。どうする?」はあ。でもそれ、前日に私とあなたで結論を出したはず。Bさんにはそれを話せばいいのでは、と答えると、「じゃそう伝えておくわね。彼女ね、ももせさんのお手並み拝見って興味津々よ」。
 電話を切って、なんだか妙な気持ちなのだ。Aさんと結論を出したはずの仕事が、いつの間にか「最後に決めたのはももせ」の雰囲気となり、お手並み拝見とは。
 で、よくよく考えたら、こういう話し方をする人って、まわりに結構いるんじゃないかと気がついた。不満や不安は自分を主語にするより「Bさんがうるさいから」と言った方が穏便だ。また、自分の口で決断するより「ももせがそう言った」と伝える方が、微妙に責任が回避できる。
 しばらく、なんだか納得できないぞー!と悶々としていたら、友人が「でもそれって女性の大切な処世術であったことも確かななのよね」と。
 上手に使えば物事を穏便にできる話術であって、それになれてしまうと恐いな、と思う。やっぱり意見や決断は自分を主語にして、そんな女性でありたい。”(6月18日付け日本経済新聞)

 クリエーター・ももせいづみさんの文。まあ、どうせ生きて死ぬだけだから、自分の人生は自分で決めて進まねば・・・人に転嫁してどうする。

(第328話) 二日酔い 2005,6,25
 “酒好きにとって唾棄すべきは、まずくて高い酒と二日酔いである。前者は自分のせいとばかりとも言えないけれど、もう一つははっきりと自分の責任だ。意志さえ強ければ、二日酔いとは縁がないはずだ。しかし、その意志がなぜか揺らぐのですね。
 あの苦しさは、ただもうおそれいって耐えるしかない。あれは罰なのだ、という人がいる。楽しく面白く放逸に振る舞った前夜の罰なのだという。反論できない。二日酔いは税金だ、というのは山口瞳さんだ。「僕はね、二日酔いというのは税金だと思っているんです。非常な楽しみのあと税金を払わなきゃいけない」という。「税金で苦しんでいるといっても、同情する人は一人もいないんですよね。二日酔いとよく似ていますね」と。
 だとしても、同じように大酒を飲んだって二日酔いにならない、あるいはごく軽くすむ人もいる。となるとあれは脱税なのだろう。だから憎たらしくてたまらなくなるのだろう。”(6月18日付け日本経済新聞)

 作家・東理夫の文。二日酔いは税金か・・・さすが、作家はうまい理屈付けをする。ボクは寂しいことながら、脱税ではなく、課税対象にもならない。

(第327話) 野茂英雄投手 2005,6,24
 “    僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る
      ああ、自然よ 父よ
      僕を一人立ちさせた広大な父よ
 高村光太郎の有名な「道程」である。自らの道を自ら切り開くという決意の詩で、人はそれぞれが人生の開拓者なのだろう。とはいえ、できれば平らかな道をと思うのも人情。前人未踏のような荒野の前ではひるみがちになるけれど、そこに挑む人がいる。米大リーグの野茂英雄投手がそうだ。
 彼の渡米後、20人以上の日本人大リーガーが誕生した。野球選手にとって夢の道を切り開いたわけである。そして今度は日本人初の日米通算200勝達成という新境地を開拓した。 
 大リーグではノーヒットノーランも2度達成した、トルネード(竜巻)投法の野茂投手。その道程の輝かしさは見事な戦績だけではなく、数々の苦難の克服にもある。故障や解雇の苦しみもなめ、近鉄時代から数えると今のデビルレイズは延べ8球団目。文字通り七転び八起きのプロ人生だ。米通算100勝の時は「これで終わりじゃない」といい、今回も同様の言葉を。”(6月17日付け中日新聞)

 イチローや松井を称える人も、野茂投手の方がもっと偉大だと評価する人は多い。メジャーへの道を苦難の末開いたパイオニアだけではなく、さらに苦難の末記録も作っていく。ここにも求道者あり、さらに応援をしたい。

(第326話) 傍観者 2005,6,23
 “毎朝利用するバス停のそばに、ひしゃげた空き缶がいくつか落ちていた。まあいいやとそのままにしていたら、あとから来た中年の女性が拾って近くのゴミ箱に捨て、私に「グッドモーニング!」とほほ笑んだ。気まずさとさわやかさが一緒になった。
 1人でゴミを拾っても歩道をすべてきれいにすることはできない。「抜本的解決策」を論じようとすればいろんな意見が出るだろう。家庭のしつけや社会教育を見直せ、罰金制度をつくれ・・・・。しかし安楽いすの評論家100人より、100人でゴミを拾った方がよほど世間の役に立つ。ゴミをぼんやり見ていただけの私は論外だが。
 人は「行動する人」と「傍観者」の二つの分かれる。社会を動かすのは、いつの時代も前者の側である。”(6月16日付け毎日新聞)

 この文は、先進国の貧困救済策づくりを引っ張ってきた歌手のボブ・ゲドルフさんについて書かれた文の中に一部である。ボクも一瞬ゴミを拾おうかと迷うときがある。これからは人を気にせず手を出そう・・・・ボクができることはこのことくらいだから。

(第325話) 夫と妻の第一義 2005,6,22
 “夫婦共通の趣味を無理して持つこともない。60歳を機に卓球を始めた夫婦は、妻の方が上達して、夫は投げてしまった。以後、この家では卓球は話題にのぼらなくなった。生涯学習教室で油絵を習うことにした夫婦は、妻が音をあげた。若いころいささか絵画に心得があった夫は、自宅に帰ると、講師より口うるさく、妻は自由な発想をけなされているような気になったという。
 夫婦が同じ靴に足を突っ込んで、窮屈な思いをすることもない。ショッピングや外食をするなり、映画やコンサートに出かけるなり、小旅行をするなり、夫婦が寄り添えることは数多くある。
 それより先に、夫婦それぞれ、一番やりたいことに挑むのがいい。お互いの第一義を認め合えば、おのずとその他の面で寄り添うことにもなる。”(6月16日付け毎日新聞)

 夫婦が一つは同じ趣味を持つようにしたいという主張は、ボクの若いころからの主張である。共通の話題という意味で、映画やコンサート、小旅行も含めてである。第一義である必要はない。競い合うものは難しい。我が夫婦の川柳は競い合わないからいいのかもしれない。

(第324話) アジサイと花言葉 2005,6,21
 “花言葉の起源の一つは、贈る花で気持ちを表したアラビアの風習という。18世紀には欧州で広がったが、当然ながら日本人の感覚とはずいぶん違う花言葉もある。たとえば英国でのアジサイの花言葉「高慢」というのはどうだろう。アジサイが英国に伝わったのは18世紀末、中国からもたらされたが、もとは日本原産である。
 最も最近は梅雨に先立って、園芸店のセイヨウアジサイの鉢植えが目立つ。こちらは欧州で品種改良されて日本に帰ってきたアジサイだが、特に近年の新品種改良で実にバラエティーに富んだ花が楽しめるようになった。今や「高慢」と言っても納得のいくあでやかな花も珍しくない。
 日本で通りのいいアジサイの花言葉は、雨に咲く「忍耐強い愛」、七色の変化から「移り気」と言ったところか。これに西洋帰りの「高慢」やら「元気」「ほら吹き」も加わり、やれやれアジサイの世界も結構まとめるのが大変そうだ。”(6月14日付け毎日新聞)

 本HPの川柳連れ連れ草のタイトルに毎月、花木を使い、花言葉を掲載している。調べていると同一の花木に全く相反するような花言葉が見つかることも度々である。毎月掲載する花を決め、写真を撮り、花言葉を調べるのもボクの小さな楽しみに一つである。

(第323話) しこ名 2005,6,20
 “人間、うまくいかないと何かのせいにしたくなる。昔、大横綱の双葉山関が興した時津山部屋の力士からこんな話を聞いた。伸び悩んでいたある力士が「ここらで心機一転」と師匠に改名を願い出た。時津山親方はこう言ったという。「だったら、双葉山を名乗れ」。ぐうの音も出ないとはまさにこのこと。
 私も故障続きのころ、後援者から「調べたら字画が悪い」と改名を勧められた。だが、「自分でいい名にします」と拒否した。以前は琴風のしこ名を誰かに継がすつもりだったが、最近はあまり感心がない。それよりも弟子一人ひとりが、自分のしこ名を大きく育てて欲しいと願っている。”(6月14日付け日本経済新聞)

 元大関琴風の尾車親方の話。双葉山を名乗れに「ありがとうございます」と答えるくらいの気概がなくては・・・・それは無理か。ボクは姓名判断とか、占いには全く無関心、無頓着な人間だからいいが、気にされる方はよほどの冷静さが必要だと思う。冷静だったら気にしないか・・・。

(第322話) 誕生日 2005,6,19
 “「普通、うれしいでしょ」
 長女がニッと笑って言った。二女が8歳の誕生日の前日、「明日は私の誕生日!ランラ ランラ ラーン」と何度も歌っていた。プレゼントは5月上旬の長女の誕生日の時、一緒の方がいい、と言うことですでに渡してある。好物が並ぶお誕生会は、お父さんお休みの日に合わせて2日後だ。
 「そんなにうれしいかなぁ」と無神経につぶやいた私に対してだった。
 そうだった。うれしかったのだ。誕生日がうれしくなくなって十数年たつ私は、そのときめきを忘れてしまっていた。子どものころは、新しい年齢になって、「こんな自分になろう」「こういうことをやってみよう」と、どこか今までと違う自分になれそうでワクワクしていたっけ。”(6月12日付け中日新聞)

 名古屋市の主婦・横井さん(37)の投稿文。ただ一つ年が上がることがそんなにうれしかったろうか ・・・全く忘れた記憶に、新鮮さを感じて取り上げた。ボクの今度は60歳の記念の誕生日だ。ランラ ランラ ラーンといけるだろうか。

(第321話) 私はこども 2005,6,18
 “      「かなしみ」
   私は65歳です。このあいだ転んで右の手首を骨折しました。
   なおっても元のようにはならないと病院で言われ
   腕をさすって泣きました。
   「お父さん お母さん ごめんなさい」
   二人ともとっくに死んでいませんが
   二人にもらった体です。今も私はこどもです。
   おばあさんではありません。
                   石垣りん
 病院で入院したことがあります。深夜、隣の病室から、「お母さん、早く来てよ、つらくてたまらないよ。助けてよ」と訴えている女性の声が一晩中聞こえてきました。
 ぼくは、娘さんがお母さんを呼んでいるんだ、とばかり思っていました。が、翌日、看護師さんから、それが高齢の女性で、もう両親などとうに亡くなっている人だと聞き、驚き、感慨を覚えました。
 父や母は、幼い子どもにだけ大切なものではない。人は死ぬまで親の子どもで、父や母を慕うことなしには生きられないのです。
 石垣さんは、人間の暮らしやありように厳しいまなざしを向けた、忘れられない詩の数々を書きました。その眼が見た自分が、ここに率直に示されています。”(6月9日付け読売新聞)

 「三木卓さんと詩を読もう」という欄からである。三木さんは作家で詩人です。この感情は、ボクが稀薄だからなのか、今のボクにはまだよくわからない。女性の感情のような気もするが・・・。でも、こうした繋がりは人間の神秘を見るようである。

(第320話) 銭湯のしつけ 2005,6,17
 “私の住む足立区では今年度、浴場組合に対し、教育事業として予算がつきました。
 私の持論は「銭湯には日本の将来がかかっている」です。なぜなら銭湯は、人としての基本、つまり周囲の人の迷惑になること、ならないことを自然体で覚えられる場所だからです。つまり「しつけをする場所」なのです。核家族化が進み、家庭単位の生活がほとんどになっている今、健全に他人と触れ合える場所は減っています。他人との接触がなく大人になってしまう人たちは、心が「未成長」になる危険があります。
 心の成長には、周囲の環境が重要です。そういう点で、銭湯は、大切な役割を果たすことができるはずです。人は年齢に応じ、ほめられたり、しかられたりする経験が必要なのです。しかも他人から。「頑固親父」と称する腕章を作り、子どもたちを時にはほめ、時にはしかったりします。
 本紙2月16日の「編集手帳」に「子どもは市の風にあてねば」という社会学者の加藤秀俊さんの祖母の言葉がありました。「市の風」とは世間のことを指すそうです。この言葉が心強い後押しになっています。”(6月9日付け読売新聞)

 面白い試みがされてるものだ。この投稿文は、公衆浴場業・田中さん(59)のものです。自分の仕事をこういう意識と誇りで行っておられることに、敬意を表する。「市の風」については(2月25日第208話)で取り上げている。

(第319話) ノータイ革命 2005,6,16
 “シャネルは20世紀の女性の生き方にファッションで革命を起こした人物である。1925年に発表したひざ丈の黒いドレスは、その色と丈、簡素なデザインが世間を仰天させた。過剰な装飾、長いすそ、気絶するほど胴を締め付けるコルセットなど、女性を束縛する衣装への挑戦だった。彼女の服は働く女性を支え、支持された。
 さて、「クールビズ」。ノータイで居並ぶ閣僚は、確かに日曜日の町内会風景。しかしネクタイだって、日本人は文明開化以来、たかだか1世紀のつきあいだ。蒸し暑い夏の気候に合わないのに、無理してつける必要はない。ないと落ち着かないのは、ホワイトカラーの男性ぐらいだろう。技術者や研究者たちは、昔からノータイだ。肩書きより、実力が優先される世界では、ネクタイは影が薄い。”(6月8日付け毎日新聞)

 ファッションとは、いろいろな言い方はあるが、人間の体や生理に不合理なことをするモノ、とボクは定義づけている。夏のネクタイ始め、紳士ズボンの折り目、外反母趾になるような靴、真冬のミニスカート・・・・。だからボクはファッションは嫌いだ。ノータイは環境対策だから、もっと徹底させるべきだ。夏のスーツとネクタイは罰金だ!

(第318話) 一身上の都合 2005,6,15
 “踏ん切りがついた。表面張力で保たれていたコップの水が、一滴のしずくであふれ出したような瞬間だった。退職を決めると、上司の一人は「9月までいろよ。会社の都合だと退職金は上積みされ、失業保険も多くなる。何とかするから」と引き留めてくれた。だが問題は金ではなかった。
 机に向かって退職願を書き出すと、いろんなことが頭を駆けめぐった。勤続33年。物を造る喜びを教えてくれた会社には愛着もあるし、謝辞も伝えたい。でも万感を込めると、とめどもない。思いもまとめられず、結局、「一身上の都合」にした。
 それでも「書いてしまえば、終わりだな」と思うと、手の震えが止まらない。書き損じて十数枚の便せんを無駄にした。
 簡素な退職願。自分が自分であるために出した結論だが、後の身の振り方に、あてがあるわけではなかった。”(6月8日付け朝日新聞)

 ボクも最近、同じようなことを経験した・・・・自分が自分であるために。ただ「思うところがあり」とした。しかし、ボクも後に何のあてがあるわけではなかった。

(第317話) 常識の怪しさ 2005,6,14
 “中学高校と、私は運動に熱中した。当時は「バテる」と言って、練習中の水分摂取を禁じるのが常識だったから、真夏の練習では地獄のような苦しみを味わったものである。筋力トレーニングにしてもそうだった。ウサギ跳びやヒヨコ歩き。腹筋はひざを曲げてはならない。まさに難行苦行のオンパレードであった。
 それが今ではどうだろう。運動の最中に水分を摂取するのは常識。膝を曲げない腹筋運動は腰を壊す。ウサギ跳びやヒヨコ歩きをトレーニングに取り入れているなどという話は寡聞にして知らない。スポーツは根性だという風潮があった時代だとはいえ、これでは体を鍛えるどころか我々の世代は全く逆のことを強いられてきたことになる。それを考えると空しさよりも恐ろしさを私は覚える。
 常識が時代と共に変わるものであるとしても、少し前まではそれが世間に根付くまでにはそれなりの時間がかかった。しかし情報が氾濫する今日では、あっという間に広がってしまう。そしてそれを否定する人間は偏屈と呼ばれる。全く厄介な世の中になったものである。”(6月7日付け朝日新聞)

 個性的にと言いながら、実はますます画一化しているのが現代なのだろう。きのうの常識が今日には非常識となる例なんて、いくらでもあることだろう。世の中の流れにどこまで身をゆだねるのか、難しいテーマだ。

(第316話) 自由と自分勝手 2005,6,13
 “歩道を母子連れが歩いていた。子どもがあちこち歩くのを、別段気にも留めず追い抜こうとした。お母さんが子どもをしかった。「ちゃんと歩きなさい!みんなの道路なの!」 久しぶりに正しいしかり方を聞いたような気がした。最近耳にすることが多かったお母さん方のおしかりは、「そんなことをすると(誰かに)怒られるわよ」だった。しかるのはあなたの役目じゃないのか?と人ごとながら思っていたのだ。
 「自由」と「自分勝手」をはき違えていけない。「自由はある決まりの上で成り立つ。それがない行動は、単なる自分勝手だ」と私のチームの監督は常々言っていた。一般社会でも同じだと思う。私たちは生まれた瞬間からあるルールにしばられている。名前、戸籍、そして法。社会のマナーも、強制力こそないがルールのひとつだと考えてもいいと思う。 歩道をどう歩こうが私の自由でしょ、の「自由」は、実は「自由」ではない。これだけ多くの人が生活しているのだから、一人一人が自分勝手を通したらどうなることか。”(6月4日付け中日新聞)

 女子バスケット・アトランタ五輪代表の萩原美樹子さんの文。人のせいにする叱り方は、本当に危険だ。その人を恨んだり、見られなければいいという気持ちを起こさせる。孫に接するボクもよく心得ておかねばならぬこと。

(第315話) 日本人の心は情 2005,6,12
 五木寛之氏の談話が同じ6月3日に日本経済新聞にもでていたので、昨日に続き記してみる。

 連続して年間3万人以上の自殺者がでていることに対して、氏は命が軽くなったといい、
“Q:命が軽くなったのはなぜでしょう。
 A:日本人の心が乾いているからだと思うのです。戦後の日本全体の意識が湿式から乾式に大転換した。戦前の、あまりにも湿度が高く封建的な主従関係とか、義理人情とか湿潤な家族制度の中で、たくさんの人が辛い思いをしてきた。そういうことへの批判と反省から戦後は、合理化と個人主義と乾いた社会をめざして日本中が営々と努力した結果、見事に乾燥しきった砂漠のような社会と心を作り上げたのではないか。
 Q:そんな乾いた心に注ぐ水とはどんなものなんですか。
 A:やはりそれは「情」だと思います。愛ではなく愛情が大事。愛と情の両方があって初めて一体の人間ができる。友が大切なのではなくそこに友情があるかどうかです。熱があるだけでははた迷惑で、情熱というものがなければいけない。斎藤茂吉は「こころ」と言うところに「情」と言う漢字を当てて「こころ」と読ませている。つまり、日本人の心は情なのです。そういう意味では、情報社会の本当の情報とは、人間の情(こころ)をコミュニケートすることだと思います。今こそ日本は、本当の意味での情報社会にならなければいけないというのが僕の持論です。”

 当然のことながら、昨日の話とは文字は違っているが、同じことを言っている。欠陥を直そうとして、いろいろ行き過ぎてしまった。行き過ぎたものは戻るだろうか。本当の水なら戻らないが、情という水なのだ、戻る、戻さねばならないのだ。情を知っている高齢者の意気にかかっている。

(第314話) ロスト感の喪失 2005,6,11
 ”Q:五木さんは「ロスト感の喪失」という言葉で今の日本を表現していますが、これは何を意味しているのですか。
 A:例えば、悪質で信じられない事件や、大事故が起こっても人々はあまり深刻なショックを受けなくなったような気がする。今は、いろんな信頼が薄らいでいる。それだけでなく「信頼が崩れ去る」ことそのものがなくなっています。「まあ、そんなこともあるかもしれないな」というふうに、世の中をどこか冷めた目で見ている。
 世の中がどんどんデジタル化されて、能率が上がり、便利になっている。しかし、一方でどんどん人間味を失っていく。
 Q:何が問題でしょうか。
 A:人と人とのつながりを失いたくないという気持ちがなくなることではないでしょうか。経済的破綻とか、大凶作とかいう刺激があって、人々が何かを失って初めて、本当に深い愛を知るということがあります。その存在が永遠でないからこそ、惜しいという気持ちになり、それが愛することにつながるんです。”(6月3日付け読売新聞)

 作家・五木寛之さんに中高生が取材した記事から要約。「喪失感の喪失」。失うことが恐くなくなったら、何の愛情も熱意も生まれないな・・・・。

(第313話) 母のプレゼント 2005,6,10
 “小学校最後の年のクリスマスの夜、母がこっそりと私に1冊の本をプレゼントしてくれた。「水戸黄門漫遊記」。勧善懲悪の痛快な読み物で夢中で読んだ。しかし私は、母がこの本を手に入れるため、一里も先の町まで雪道を歩いていっただろうことを思い、本を抱きしめて泣けて仕方がなかった。その本は、プレゼントの習慣などなかった私にとって宝物だ。故郷を離れるときも、結婚しても、いつもそばに切ない母の心とともにある。
 45年以上たった今は、セピア色でページをめくるとポロポロと破れてしまいそうだけれど、書棚の端にあるだけで妙に安心する。そんな本と思い出に恵まれた私は幸せだと思っている。”(6月1日付け中日新聞)

 稲沢市の主婦・鈴木さん(57)の投稿文。ボクの子ども時代も滅多に本など買ってもらえなかった。なぜか「小学生年鑑」というかなり厚い本を買ってもらった。明けても暮れても眺めていた記憶がある。新刊本を買って、今手元に残っている最も古い本は昭和32年発行の「郷土にかがやく人々」であろうか。

(第312話) 便所の神様 2005,6,9
 “小型浄化槽を設置するため、くみ取り式の弁槽を埋めることになった。
 当日、現場監督らしき人が袋を持って現れた。便槽のふたを取り、袋から塩を取りだすと、ひとつかみずつ2カ所へ盛った。続けてカップ入りの二つの清酒を円を描くように便槽へ注いでいく。
 こんな儀式があったとは。監督と連れの男性がひざをついて手を合わせ始めた。あわてて私もひざまずく。少しにおう便槽の周りで3人が合掌。
 「井戸を埋めるときにもこういうことをしますよね?」と聞くと、監督さんは「井戸にも便所にもそれぞれのカミサンがおってですけえ」と、笑いながら言った。”(5月29日付け朝日新聞)

 尾道市の主婦・工藤さん(56)の投稿文。日本にはいたるところに神様いるという思想がある。ボクも子どものころの正月には、かまどにも自転車にも鏡餅を供えた。万物すべてを大切にし、敬った。「サツキとメイの家」にはこんな思想も感じられるのだろうか。「敬う」・・・久しぶりに書いた文字の気がする。

(第311話) サツキとメイの家 2005,6,8
 “愛・地球博の「サツキとメイの家」には予想を超える応募があるようだ、なぜ、それほど人気があるのか。
 どん底からいかに抜け出るかと必死で頑張っていた昭和30年代では、木造で、土間やかまどがあって、五右衛門風呂があってと別に珍しくもないよくあった家である。テレビ、冷蔵庫、洗濯機など電化製品をそろえることが新しい生活の夢であり目標であった。かまどや五右衛門風呂からの脱出を日本中がめざしていたのである。
 そして、私たちは夢に見たほとんどのことを手に入れたのに、なぜ、抜け出したいと思った「サツキとメイの家」に今ごろになって群がるのだろう。
 「サツキとメイの家」は、宮崎駿さんによるアニメ「となりのトトロ」の中にある。「となりのトトロ」に込められたものは、ひとと自然との共存、共生、そして世代を超えたひととひととの共存、共生ではないだろうか。どんな時代になっても、ひとには変わらないものがある。それを子孫へとつないでゆくことが今生きている者のつとめである。
 「サツキとメイの家」への関心の高さを説明するのに、昔への郷愁ややじ馬意識では私は納得ができない。今、日本が向かっている社会への不安を解消できる何かがあり、それを人々が求めているのではないかと思うのである。”(5月31日付け中日新聞)

 ボクは「サツキとメイの家」はまだ見ていないが、この筆者の国立長寿医療センター総長・大島伸一氏が言われるように、この人気には何か難しい理由があるのだろうか。行った人に聞いてみたいものだ。

(第310話) 沈黙の雄弁 2005,6,7
 “プロ野球を自宅でテレビ観戦する。妻は「投手の交代が早すぎる」と手厳しい。アナウンサーも解説者もしゃべりすぎだと、私たちは意見が合う。アナウンサーを永年勤めている私にはよけい気にかかる。
 アナウンサーとして異例の野球殿堂入りした元NHKの志村正順さんにこんな逸話がある。戦後間もない時代のことだ。
 ラジオの実況中継を担当した志村さんは敬遠をアナウンスするのにまず「キャッチャー、立ちあがりました」と言い、しばし沈黙を守った。ミットに収まる野球音を四つ聞かせて「お聞きのように敬遠のフォアボールです」とやったという。
 この場面は聴取者の想像力をさぞやかき立てたに違いない。旧友に聞いたこの逸話をご本人に数年前、確認すると、少し考えてからうなずいていた。この名中継に学ぶところはないだろうか。”(5月30日付け朝日新聞)

 アナウンサーの小川宏さん(79)の投稿文である。沈黙は金・・・・沈黙の活用の仕方は難しい。一般人の投稿欄に、こんな著名な方の投稿文が掲載されていることにびっくりした。そして、気をつけていると度々である。

(第309話) 借金王カエサル 2005,6,6
 “敵に対して絶対的に劣勢だったカエサルは、大隊長や百人隊長から金を借りまくり、それを3万人の兵士全員にボーナスとして支給した。兵士たちは総司令官の気前の良さに感激して力戦奮闘、隊長たちも自分の金がパーにならないよう全力で戦い圧勝する。
 借金による「一石二鳥」作戦である。ここがいい、と言ったら「いや、カエサルは借金と人間を熟知していた点がすごいんです。借金は多くなればなるほど、借り手の方が主導権を握ってしまうと言う不条理よ」と塩野さん。
 カエサルの名文は「ガリア戦記」を読むまでもない。禁を破って武装集団でルビコン川を渡ったときの「賽は投げられた」、小アジアでの戦勝第一報「来た、見た、勝った」、そして暗殺される際の「ブルータス、お前もか」。
 塩野さんは、防衛大の卒業式で来賓祝辞を頼まれ、こう語ったそうだ。「カエサルもハンニバルも、傑出した軍人はシビリアン(文民)としても第一級だった。皆さんも制服を脱いだ世界で一級であることが重要なのです」”(5月28日付け中日新聞)

 中日新聞・小出編集局長が語るイタリア在住作家・塩野七生さんの話。一芸に秀でた人の幅の広さは、日ごろよく感じるところ。自分などどうしようもないなと思うが、凡人は凡人としての幅を広げるのみ。

(第308話) 親の脅迫 2005,6,5
 “「お母さんは、あなたのためを思って言ってるのよ」「お前には分からないだろうが、世の中そんなに甘いもんじゃない。いずれお父さんの言ったことがわかる日が来るよ」
 こんなアドバイスが日常的にあるように思いますが、考えてみると脅迫です。まだ何も始まっていない子どもに、理屈を言わないで従っておけといっているのです。そこには、自分が人生の選択で培った自信を、子ども自ら作り出す機会を大切にしてやろうとする謙虚さがありません。
 一方、苦しく失敗の多かった親にも、反省や後悔を含めたいろんな思いがあります。「結局のところ世の中なんてものは、いざというときには・・・・」、これも子どもにはありがた迷惑な警告です。
 詰まるところ、親は自分の人生がどうだろうとも、子どもの人生に対して過剰な警鐘をならす脅迫者になりやすいのです。先に走っていると言うだけで、いろんなことが分かっているなんて思うのは大人の勘違いです。
 自分で選んだものに向かって努力する子を育てる、これだけが親の目標です。”(5月27日付け中日新聞)

 立命館大学・団教授の文。この忠告に従ったとき、放任、わがまま勝手とどう見極めをつけるのか。ボクはこういうことも頭に置きながら、自分の信じるところを一生懸命話すことだと思うのだが・・・・。この「話・話」は脅迫文になっていないだろうか。

(第307話) 柵がない! 2005,6,4
 “新緑の美しい季節。数年前から川遊びが盛んになっている。その分、川の事故を耳にすることも増えたようだ。
 私の子どものころは「よい子は川で遊びません」の立て札に阻まれ、あまり川と親しんだ覚えはない。同級生だった友人が「子どもと川に行ったけど、自分が遊び方を知らなくて参ったよ」と言っていた。川の魅力も怖さも体験していない世代。いざというとき対処できないのではと不安になる。
 自然の中での「安全」を考えるとき、日本はまず「危険」を遠ざけてしまうようだ。
 運河が網の目のように張り巡らされたオランダ。アムステルダムには、道路と運河の境に柵のない場所が多い。子どもには危ない。そこで、3歳で水泳を習い、5歳で靴と服を身につけて泳ぐ練習をする。運河の国に生まれた限り、落ちるという危険を前提に生きていくわけだ。
 水害と闘い国土を作ってきたオランダ人。自然の驚異を押さえ込みながら、人の暮らしと水とは折り合って共存してきた。無粋な柵がないから古い町並みは一層美しい。”(5月26日付け日本経済新聞)

 女優・星野知子さんの文。何かあるとすぐに管理者の安全管理責任を問う日本には、難しい対応だ。自然との共生を言いながら、実態は全く逆の方向に向かわなければいいが・・・。

(第306話) 戻った「野口さん」 2005,6,3
 “1時間に1本の電車がとまるだけの無人駅も、朝のうちは少しにぎわう。上りと下りに分かれて、高校生たちが乗車するからだ。
 彼らの姿が消えて、とたんにひっそりとした待合室で、千円札を拾った。きちんと四つ折りにされた新札。高校生が落としたな、と直感した。
 駅の向かいの駐在所に届けると、実直そうなお巡りさんが、結果は連絡しましょう、と言われたが、駐在所からの電話はないままだった。金額は千円。今の高校生にとっては、見捨ててもよい額なのだろうか。だが若い人に、落としても出てこないと思われるのもしゃくだし、社会の信頼関係が崩れていくのも嫌だ。
 駐在所には悪いかな、と思ったが、「野口英世があなたを待っています」と大きめの紙に書いて、駅の待合室に張り出した。
 お巡りさんが自宅に訪ねてきてくれたのは、その日の夕刻だった。学校帰りの女子高生が張り紙を片手に、駐在所にやってきたという。あの朝、母親からもらった小遣いを、そっくり落としてしまったのだとか。
「はい、あなたを待ってた野口さんです」そういって手渡しましたと、お巡りさんは笑っていた。”(5月23日付け朝日新聞)

 宮城県白石市の主婦・河村さん(61)の投稿文。機知もあって、何か自然にほほ笑んでしまう。ボクはこんな小さな良い話が好きだ。

(第305話) 大鵬親方 2005,6,2
 日本相撲協会の大鵬親方は、16歳で二所ノ関部屋に入門、史上最多の優勝32回、6連覇2回、45連勝などの記録を残した。その親方が65歳の定年で相撲界を去る。

 “36歳のとき脳梗塞で倒れ左下半身の自由を失う。これを懸命のリハビリで克服する。 「横綱大鵬ともあろうものが、こんなものに負けてたまるか。必ず元の大鵬に戻ってやる」と、苦しかった当時の気持ちを初めて明かした。
 現役時代を振り返り、「精進してひとつのものをつかむ。人生はそのためにある。むしろそれが楽しい思い出になっている」と話した。”(5月22日付け中日新聞)

 また、5月24日付け中日新聞にはこんなことも書かれていた。「巨人、大鵬、卵焼き」という言葉に対して、
 “「いい選手をそろえて強くなった巨人と、裸一貫、稽古、稽古で横綱になった私が何で一緒なのか」自署でそう述懐している。”

 精進、実績、そして、それに裏打ちされた自負心。それは病も吹き飛ばすのである。自負心か・・・。

(第304話) ベテラン健在 2005,6,1
 昨年200勝を達成した巨人軍の工藤公康投手が5月19日の試合で、42歳という最高齢での2けた奪三振と、セ・リーグ最年長での完投勝利を収めた。

 “42歳以上での完投勝利はパ・リーグを含めても実に55年ぶり、2人目の快挙だという。9回裏無死満塁という絶体絶命の場面でも、勝利を読み切っているような投球術だった。
 アテネ五輪の銀メダリスト、アーチェリーの山本博さんも42歳だが、先日の競技会で、13回連続となる世界選手権への出場を決めた。若い世代の活躍が注目されるスポーツ界だが、どうしてベテランも健在である。
 まだ老け込んでいる場合ではないと励まされた中高年も多いのではないか。山本さんも「年齢はほとんど意識していない」と言い、「キャリアの問題ではなく感性と努力の問題」とも語っている。”(5月22日付け読売新聞)

 工藤選手については、第41話でも取り上げた。ボクは年齢を意識している・・・・さあ、これからだと。


悠澪 > 1年1回:行動しなければ、思っているだけでは何も始まらない、何も解決しないのですね。気の遠くなるような地道な努力ですが、真剣な姿は人の心を動かしますから、協力者も現れて出荷することができたのだと思います。自分の知らないところで、損得勘定なしに地道な努力を続けている人が居るということを常に忘れずにいたいと思いました。 (2005/6/30/23:39:52)
ハイブリッジ > 漢字文化 : 何事も一芸に秀でることで、漢字文化の伝承やら役割が果たすことも一つの例だと思う。人生は60歳からと言い「90歳でお迎えがある時はそう急がずとも良いと言え」という人が居る。自発的な「死ぬ気はない」と比べると他動的な表現であり、対照的なので記述した。 (2005/6/29/19:36:42)
ハイブリッジ > ロングランの秘密 : 劇団四季のCATSを観たのはあれこれ6年前か? これもロングランの講演だった。ロングランにはそれぞれに秘めたエクスがある。各人それぞれに感想は異なるが、猫嫌いな小生もCATSは猫族の生態を人間社会に比喩していたと思う。今回のライオンキング、小生を除く家族はチィケットを購入し楽しみにしている。小生はライオンキングならぬウオーキングにはまっている。 (2005/6/29/19:36:18)
悠澪 > 漢字文化:漢字が総合理解につながるなら本当にいいのですが。それにしても、95歳にしてまだまだやる気十分な教授に頭が下がります。 (2005/6/28/22:42:1)
悠澪 > ロングランの秘密:私は歌舞伎には縁がなくて、昔一度見ただけで何もわかりませんが、映画が大好きでよく見ます。映画も映画史上に残るようなものには人生へのメッセージがあるように思います。 (2005/6/28/21:51:52)
悠澪 > 主語すり替えの術:私もよくやります、そんな自分が嫌でたまりません。自分に自信がないのと、相手を怒らせたくないというか、相手に嫌な人と思われるのが怖いというか、つまりすべてを人のせいにして自分は涼しい顔をしている卑怯者です。 (2005/6/26/23:33:26)
悠澪 > 二日酔:楽しくてつい飲み過ぎた。厭なことがあってがぶ飲みした。どちらも意志薄弱。二日酔いは自業自得、罰だと思います。 (2005/6/26/23:9:26)
ハイブリッジ > 野茂英雄投手 : 出来た道を歩くのは易しい。その道を造るのは大変なこと。ここでは野茂投手本人が苦難の道を切り開いたことを中心に紹介している。 更に感心することはアメリカに在住しながら、日本に目を向け社会人野球チームをつくりプロ野球選手の登用の道を設けている。無表情の中に偉大さが潜んでいる。 (2005/6/25/16:47:25)
悠澪 > 野茂英雄投手:野茂選手は、なんと言っても大リーガーへの先駆者ですから、その勇気を称えたいと思います。野茂選手をはじめイチローや松井秀樹選手は持って産まれた才能があるのだろうと思いますが、その才能におぼれることなく並々ならぬ努力を続けて、スランプや故障などの苦難に出会ってもあきらめない姿勢が結果を生み出していると思います。 (2005/6/24/23:7:32)
ハイブリッジ > 傍観者 : ゴミの例で取上げられているので、その範囲での見解を。愛・地球博のボランティア活動に参加して、少なくとも会場内でゴミが落ちていれば積極的に拾っている。これが一般の公共場所や公道になると、まだまだ拾えない。対象範囲が広ろ過ぎ、きりが無いと言うのが本音。小さな行動が大切だとは理解しているが…。 (2005/6/24/19:27:25)
修行ランナー > 夫と妻の第一義:夫婦が同一趣味とか、同一行動を常に保つことはきわめて難しい。異なった環境で育った二人が一緒になったからであろう。それぞれの感受性を尊重にしてゆけば、楽しく過せると思う。片一方の趣味を押し付けるのは良くない。自分はジョギングや山歩きに打ち込み、奥方は気の会う知り合いと散歩や日帰り旅行を楽しんでいる。 (2005/6/24/6:13:12)
悠澪 > 傍観者:毎朝犬の散歩をしながら、ビニール袋を持って吸殻を拾って歩いているおばあさんがいますが、その姿に感動しながらも私は身勝手な人間でして、そばにゴミ入れがあって手を洗える場所があれば迷わず拾いますがなければ拾いません。外出途中でも手の汚れを気にせず拾うべきでしょうか。ゴミ拾いをする時にいつも思うのですが、ポイ捨てをする人は誰かがこれを片付けているということを考えたことがあるのだろうかと。 (2005/6/24/0:13:42)
ハイブリッジ > 夫と妻の第一義 : 小生夫婦の現在の第一義は小生がウオーキングで家内は水泳である。お互いが別行動で競い合っていない。共通の趣味と言えば旅行であるが、旅行中に見どころが異なり時折意見がすれ違うことがあるが、まあ愛敬のレベルか…。 (2005/6/23/7:13:21)
悠澪 > 夫と妻の第一義:夫婦がいつも何をするも一緒というよりは、お互いの第一義を尊重し合って時には別行動をすることも必要だと思いますが、一つくらいは同じ趣味を持ちたいです。我が家の場合趣味・外食・映画・旅行・その他諸々好みが違うので一緒に行動しようと思えば常にどちらかがつまらない思いに耐えなければなりません、ひとつくらいは二人で楽しく過ごせるものがほしいです。 (2005/6/22/21:57:25)
ともちん > アジサイと花言葉‥誕生花があると聞いた事があります。それをお誕生日に贈るようです。誕生花にも花言葉があり、すべてが良い花言葉であるわけでもありません。ハイブリッジさんのお話のように誰がつけたのでしょうか?ちなみに自分の誕生花の花言葉は「ご機嫌」でした。 (2005/6/22/5:28:20)
悠澪 > アジサイと花言葉:アジサイも本当に種類が多く、ブルーやピンクはもとより若草色や白っぽいもの、赤に近いピンクなどなど、色だけではありません、花弁(がく)もさまざまです。これをひとまとめにしての花言葉ではいけないような気がします。私は花が大好きですから、川柳連れ連れ草の毎月のタイトルを楽しみにしています。花の説明や花言葉も勉強になります。長く長く続きますようにお願いします。 (2005/6/21/22:32:6)
ハイブリッジ > アジサイと花言葉 : 花言葉は誰がどのようにして付けたのだろう?花から受けるイメージと花言葉が一致しないケースが多いと感じているのは小生だけだろうか? 従い花言葉は気にしないが、誕生日とかお見舞いなどで花を贈るときに要注意と言う。 (2005/6/21/21:52:56)
ハイブリッジ > しこ名 : ある地位以上になったら考えることで、一般の力士(人々)には無縁なことだと思う。小生は姓名判断や占いには全く関心が無い……これは地位に関係しているか? (2005/6/21/21:51:0)
悠澪 > しこ名:知人に字画が悪いと言って名前を変えた男性がいますが、変えた後も何も変わったところはありませんでした。どんな良い名前をつけても努力なしには成功はありえないと思います。 (2005/6/20/22:37:4)
ともちん > 誕生日‥最近自分が何歳だったのか忘れてしまう?事が、本当にあるんです。(笑)素敵に年齢を重ねれば誕生日も怖くないかな‥。 (2005/6/20/21:6:9)
ともちん > 私はこども‥親には何かあるとすぐ報告したくなります。親はいつも私達子供のことを考えていてくれるような気がします。つい頼ってしまいます。 (2005/6/20/21:3:23)
摩夢多絽 > 「お母さん、私を守って」と叫びました。あの東海豪雨の日、車もろ共、水没しそうになった時。帰宅したのはあくる日の午前4時半でした。 (2005/6/20/8:39:33)
ハイブリッジ > 誕生日 : 年齢とともに見方や受け取り方が変化するものの一つ。この歳になって、子供たちから誕プレを受けるとくすぐったい。誕生日後のウオーキングイベントで参加票や申込書に年齢を記入する時、ずっしりと重みを感じ一歳上を記入したくない・・・。 立場が換わり、孫どもの誕生日に祝福すると「ランラ ランラ ラーン」と喜んでいる。子供たちは喜べない年齢に差し掛かり、家内はともかく小生はアンタッチャブルでいる。 (2005/6/20/7:30:28)
悠澪 > 誕生日:誕生日が嬉しくなくなっているひとりですが、この物騒な世の中で無事に歳を重ねられることを喜びましょう。生きていればこその誕生日です。死んだら歳は取れないのですから。 (2005/6/19/22:26:15)
悠澪 > 私はこども:“父や母を慕うことなしには生きられないのです”そのとうりだと思います。世の中には不幸にして親を愛せない人もいると思いますが。人は何があってもどんな時でも、無条件に自分を愛してくれ受けいれてくれるのは親だと信じていると思いますが、不幸にしてそういう親ではなかった場合、愛と憎しみは紙一重と言われるように憎しみに近い感情を持つと思います。他人ならまだ許せるのです。「所詮この世はこんなもの」であきらめもつきますが、親の愛を感じない、親を信じられない子どもは親を慕うがために親の愛に飢えて恨んでしまうのです。子の恨みは裏返せば親を慕っているのです。 (2005/6/19/22:11:22)
ともちん > 銭湯のしつけ‥私は一度も銭湯に行ったことがありませんが、子供にとって躾や人と触れ合う場になっているのですね。今はスーパー銭湯が流行っていますが、温泉と違って混んでいて皆さん自分の知り合いの人以外には声を掛けないので残念なものです。 (2005/6/18/21:24:55)
ハイブリッジ > 銭湯のしつけ:斜陽産業である銭湯で奮闘されている様子と、この場を社会教育で活かす信念を持って取組まれている姿に脱帽します。小生は田舎育ちで銭湯へ入った経験はありません。社会教育をどこで受けていたのでしょう? 生活や遊びの周囲に頑固親父と称する方が大勢いたと思います。一つの事例、先日ある場所で片山鳥取県知事のトークの中に「東京の混雑する駅で倒れこんだ人がいたら、声を掛ける人がどれだけいるでしょう?鳥取県ではそのような方を見かけたら即声を掛け対応する・・・」。合理化・効率化・個人などを優先するあまりに人間性が2極分化している。この辺りにも改善の手立てがありそうに見える・・・。 (2005/6/18/7:24:33)
悠澪 > 銭湯のしつけ:もう何十年も銭湯へは行っていませんが、子供の頃銭湯でタオルを振り回したり走り回ったりするとよそのおばちゃんに叱られていました。又、脱衣所できちんと脱いだものをたたんでいると褒められたりもしていました。最近は近所の子供を叱っている大人の姿を見かけません。銭湯のような場は必要だと思います。最近の銭湯は家族風呂でいくつかの部屋に分かれていたり、サウナやジェットバスとかいうようなもので、昔のような大風呂は本当に少なくなりました。残念です。 (2005/6/17/21:52:0)
ハイブリッジ > ノータイ革命 : カジュアルデーを思い出した。社会一般に、現在も継続しているかどうかは知らない。10年前小生が勤務していた会社は「オールカジュアルデー」を採用し、少なくとも小生が退職するまで続いていた。クールビズの先行であったように思う。採用当初は、年配者が対応に苦慮していたのと、営業部門などお客様と接する部門はタイを着用していた。着こなしは別にして小生は即切替え、ネクタイが取れると首周りが楽になり快適な環境で仕事ができた。このクールビズ、環境対策を推進する上の一つの課題であり、継続することが重要である。 (2005/6/17/17:56:51)
悠澪 > ノータイ革命:常々夏の男性をかわいそうに思っていました。見かけよりやるべきことをやることが大切だと思います。もちろん、他人に対して失礼にならない程度の身だしなみは必要でしょうが。 (2005/6/16/23:26:32)
修行ランナー > ノータイ革命:わが国は湿度の高い国である。羽織、はかまという高湿度対策にふさわしい独自の文化があるのに、明治の欧米志向以来、いつの間にかネクタイ着用者が紳士と位置づけられてしまった。自分は現役時代も夏はほとんどノーネクタイで過してきた。かたぐるしい衣服はやめて快適に夏を過したいものだ。ノーネクタイ万歳・・・・ (2005/6/16/21:50:15)
ともちん > 一身上の都合‥「自分から会社をとったら何も残らない」と思い、一度退職届を出した事がありますが、その時は上司に引き止められました。一度しかない人生と思いながら、なかなか自分の思った通りには出来ないものです。自分自身の為に、時には決断・勇気が必要です。 (2005/6/15/21:50:12)
悠澪 > 一身上の都合:自分らしくあるためには時には大きな代償を払わなければならないこともあるでしょう。悩みに悩んで決断されたことでしょう。一生を悶々と暮らすより、自分らしくあるために、時には思い切った決断をするほうがいいのかもしれません。人生を無駄にしないためにも。 (2005/6/15/21:29:37)
ハイブリッジ > 常識の怪しさ : 「常識の非常識」山本七平著(1986年)を読んだ(見たの方が適切)のを思い出した。根拠なき前提がいつしか《常識》となって通用し、人々の思考がそれに拘束されると、社会の通念に従って常識的に考えかつ行動しているつもりが、結果において意外な非常識となってくる。・・・・《常識》とは分析不可能なものであり、明治になってできた言葉だそうだ(徳川時代には〈常見〉と言っていた)とのこと。 深刻に捉えずに、自分の中の常識をメジャーにして行動することか? (2005/6/15/8:21:33)
ともちん > 常識の怪しさ‥「常識」とは、何を基準に言うのでしょうか。寺さんのおっしゃるように今日の常識が明日の常識で無くなる事も多々あると思います。自分を信じて、的確な判断ができれば世間の常識にこだわり過ぎなくてもいいような気がします。 (2005/6/15/7:9:48)
悠澪 > 常識の怪しさ:古い常識がすべて間違いで新しい常識が絶対に正しいとは限りません。この膨大な情報に振り回されることなく自分の考えをしっかりと持ち、本当に正しいものを見抜けるようになりたいものです。 (2005/6/14/22:37:9)
悠澪 > 自由と自分勝手:バーガーショップなどで店内を子どもが走り回っていても注意もせず、おしゃべりや携帯電話に夢中の若い母親をよく見かけます。母親自身がまだ遊びたい盛りのようです。又「そんなことをしたら○○に叱られるよ」と言う母親は心のどこかで子どもに嫌われたくないという心理が働いているのだと思います。ですが、子どものためにも親は、自由とはルールを守り責任をもって行動することだということを教えてあげてほしいです。正しい叱り方をすれば、その時は不満に思った子どもも大人になってから正しい行動がとれるようになればきっと感謝すると思います。 (自分の子育ての反省から) (2005/6/13/21:50:23)
ともちん > ロスト感の喪失‥大きなものを失って気付けばまだ良いです。今の世の中、新しい事が次から次へと起こり、一つ何か起こればまた一つ忘れてはならない事を忘れていく‥。そして同じような事故や事件が起こって「前にもこんな事あったよね」と言う様に大きな事故や事件も「仕方がない」で済まされてしまう。日本人の心は情にも挙げられていますが、自分だけではなく周りの人にも思いやりの情を持って接すれば乾いた世の中を潤せるのでないかと思います。 (2005/6/13/21:1:30)
ハイブリッジ > 日本人の心は情 :「合理化と個人主義と乾いた社会をめざして…」改革してきた。「人間の情(こころ)をコミュニケートすること…情報社会…」情のある世界に戻す一つの手段。 やや哲学めいているが、現代の中年以下の世代へ普及する方策は?インターネットのHPやメールでの情報交換も良い意味で使われればよいが、変形して利用する者も目に付く(例えば自殺志願)。そう言えば、映画やテレビで時代劇の放映が少なくなった。義理と人情のこの世界・・・に関心を示さなくなった一つの表れか? マスコミはじめ、あらゆるメディアが偏らない情報を提供することも必要だと思う。もう一つは家族のコミュニケーションの場と時間を最大限確保することだと思うが? (2005/6/13/17:17:7)
悠澪 > 日本人の心は情:辛い思いをしてきた親たちが、子どもには自分と同じ思いをさせたくないという思いと子どもの数の減少とで過保護になり、その結果、人の痛みのわからない人間が増えたのだと思います。情=心=思いやりです。人間が他の動物と違う、動物の中のトップである証に情は持ち続けたい、取り戻したいですね。 (2005/6/12/22:32:7)
ハイブリッジ > 母のプレゼント & ロスト感の喪失 : 小生が小学生の頃の母の物質的なプレゼントと言えば小学館の「○年生」の雑誌。夢中になって呼んだ記憶がある。 ロストについては、物質的なことが先行して「落とすな」「忘れるな」であった。精神的なことはそれに付随していたと思う。 (2005/6/12/16:54:12)
悠澪 > ロスト感の喪失:人と人とのつながりを失いたくないという気持ち≠ェなくなっているのでしょうか? 若い人の集団自殺や少年の凶悪犯罪のニュースを聞くたびに心が痛みます。これからの人生を失ったり、心に深い傷を残される被害者やその親はもちろん、加害者も気の毒でなりません。例外もあるでしょうが、自殺者や加害者は人との係わりを望んでいながらうまく関われずに、自信を失くし、劣等感を持ち、厭世的になり、寂しい思いをしてきたのだと思います。的がずれているようでしたらお許し下さい。 (2005/6/12/0:40:9)
ともちん > 母のプレゼント‥忘れられないプレゼントがあるなんて素敵ですね。それが本で45年たってもまだ手元にあるとは驚きます。私もプレゼントをする機会がありますが、人はそれぞれ価値観が違うので、その人の思い出に残る贈り物をすることは難しいと思います。 (2005/6/11/9:37:54)
悠澪 > 母のプレゼント:うらやましいお話です。私は、ほしい物をおねだりするとなんでも「これからはちゃんと勉強するんよ。」という条件で、父がその日の内にも買ってくれていました。勉強嫌いの私は買ってもらうときだけ「うん、絶対勉強する。」とはじめから守るつもりのない約束をしてはほしい物を手に入れていました。子供の頃はこれの繰り返しでした。その上母は浪費家で買い物に行くたびに、服や小物やアクセサリーなどを買って来てくれました。おかげで私は物質欲・感動のない人間になってしまい、友人や知人から「悠澪にプレゼントしてもせいがない、ぜんぜん喜んでくれん。」と言われます。プレゼントされることはとても嬉しいのですが、心の中で「だって、ほしくないんやもん。」とつぶやいてしまいます。 (2005/6/11/0:23:12)
ハイブリッジ > 便所の神様 : この記事をよく抽出されました、脱帽。本論から外れるが、話・話の掘り出しは、集中的に新聞を読まれ、その中から感性にあったものを挙げられていると思う。これを継続されていることに敬意を表します。 (2005/6/10/7:11:29)
悠澪 > 便所の神様:昔の人は、人間が生活していくうえでお世話になっている場所にお礼と感謝の気持ちを表し、大切に扱うことを教えるために、いたるところに神ありと言ったのでしょうね。あって当たり前のように思っていました。生活態度を見直し改める必要がありそうです。 (2005/6/10/0:35:22)
悠澪 > サツキとメイの家:のんびりとおだやかに、平和に時間が過ぎていくそんな時代だったのではないでしょうか。家電製品・車・電話などがいきわたり時間にゆとりができていいはずなのに逆に時間に追われ人はやさしい心を忘れつつあるように思います。人間らしさを取り戻さねばという思いがあるのではないでしょうか。 (2005/6/10/0:1:38)
ともちん > サツキとメイの家‥映画を観た人がサツキとメイの家を訪れて、数十年前の日本を体験して、今の世の中を考えるきっかけになることは良い事ですね。 (2005/6/9/21:14:30)
ハイブリッジ > サツキとメイの家 : 小生は家を覗いていない。家の周辺の道を通り高台から見学した(応募しなくても自由に散策できる)。人気の秘密は各人の感性の問題ではなかろうか? 大島さんのように大所高所から見る方、単純にアニメから入り実物を見たい方(つまり実物を知らない層)、実物に住んだ経験を持ち当時を懐かしむ方、などで評価が分かれると思う。小生はかまどや五右衛門風呂の経験者であり、単純にどのような場所にどんな造りの家かなと・・・。 (2005/6/9/20:9:6)
悠澪 > 沈黙の雄弁:私は仕事をしながらほとんど毎日ラジオを聞いています。スポーツの実況では選手の動きをことこまかに一挙手一投足伝えてくれているようですが、映像がない分アナウンサーが見たものを言葉に変えて伝えている、一瞬一瞬の動きを素早く言葉に置き換えて放送する技術にいつも感心させられていましたが、そういえば、ほとんど言葉の途切れることはありませんね。沈黙が数秒でもあればそれがいけないことのように話しだします。沈黙の雄弁≠ネるほどね〜 (2005/6/9/0:19:59)
ハイブリッジ > 沈黙の雄弁 : 沈黙と間。その採り方が難しい。特に一般人は喋りだすと、一気に説明しようとして間は勿論、沈黙して相手に考えさす時間などとてもとても・・・。 ここ数日「・・・」が目立つが意識していた訳ではない。読者の想像にお任せしようと考えたものだが、如何なものでしょうか・・・。 (2005/6/8/7:17:28)
ハイブリッジ > 借金王カエサル : 関連から2件。「借金は多くなればなるほど、借り手の方が主導権を握ってしまうと言う不条理よ」;不良債権はこの類か? 作家・塩野七生;以前に塩野さんの随筆か小説を読んだことがあるが、難しくて理解できなかった。今回の解説は解かりやすい。 (2005/6/8/7:17:6)
ともちん > 沈黙の雄弁‥ラジオの野球中継はあまりに早口すぎて何が起きたのかわからなくなることが度々あります。沈黙は聞いている側に適度な緊張感を与えるのでより効果的だと思います。 (2005/6/7/21:18:13)
悠澪 > 借金王カエサル:借りるが勝ち、ないものは払えん≠ニいう言葉を聞いたことがありますが・・・ 人間を熟知していたカエサルも女の色香には惑わされたのですね。 (2005/6/7/8:11:42)
悠澪 > 親の脅迫:子どもが迷っている時や何かをしている時は、思考力・判断力・集中力などが育っている時なので親は口出し・手出しをしてはいけないと思います。これは放任ではありません。放任とはほったらかしにすることです。子どもが行き詰まり相談に来た時に親の考えを話してあげればいいのです。ただし、親の考えを押しつけるのではなく参考にするためです。親は子どもを一人の人間として認めなければいけません。子どもは親の分身でもなければ、所有物でもありません。子どもに苦労させたくないと思う気持ちはわかりますが、親と同じ失敗をするとは限りませんし、たとえ失敗したとしてもそれは経験として人生の肥やしになるはずです。失敗を自力で乗り越えることで自信もつくし人間としてたくましく育つと思います。親の役目は子どもを見守り常に気にかけていることだと思います。放任とは口も手も出さないのはもちろん、目も気もかけないことです。  (2005/6/6/23:44:4)


川柳&ウォーク