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(第211話) 実践・通夜の席 |
2005,2,28 |
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2月14日に(197話 子を通夜の席へ)という話を紹介したが、全くそれを実践されたような話があった。
“寒い夜、通夜に向かう車中で息子たちに、その人との大切な思い出を話して聞かせました。そして葬儀場について、遺体に対面して、息子たちに「もうおばあちゃんと話できないんだよ」と説明しました。ところが5歳になる長男は「じゃあ起こしてあげたら?」と私に言いました。 どう答えるべきか悩みましたので「じゃあ、どうしたら起きるかな」と聞くと、「大きな声を出したらいい」と言います。大きな声を出してみても起きないので、「今度は棺をたたいたら」と、言い出しました。それでも起きないおばあちゃんを見て、息子はどんな方法でも無理だと分かったようです。そして、私に「ママもおばあちゃんになったら死ぬの?」と聞くので、うんと答えました。すると息子の目から涙がこぼれました。息子にはこの方法で少し死について分かってもらえたような気がします。”(2月18日付け朝日新聞)
これは名古屋市の主婦・辻さん(34)の投稿文で、これでほぼ全文である。与えられた機会を見逃さす、きちんと活用されたと思う。この機会を生かす、殺すが人生を大きく左右する。197話の元になった2月5日の新聞を読んでの投稿なんだろうか。
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(第210話) 食品「たちつてと」 |
2005,2,27 |
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いろいろと語呂合わせを考えてくれるものである。今回は健康アドバイザーの美波紀子さんの話。
“「食事の栄養バランス」については、30品目の食材をそろえるとか、一汁三菜の献立にするなどの一応の目安がありますが、私自身が実行して健康的に12キロのダイエットをした栄養バランスの取り方を紹介します。それは毎日「たちつてと」の頭文字の食品を必ず食べる、と言うシンプルな方法です。 「た」・・・大豆製品→植物性タンパク質。 「ち」・・・チーズなどの乳製品→カルシウム。 「つ」・・・ツナ(まぐろ)の仲間の魚介類→DPA、DHA(動脈硬化予防) 「て」・・・てん草などの海藻→植物繊維とミネラル。 「と」・・・トリ肉などの肉類→動物性タンパク質。 これに加えて主食となる炭水化物や野菜、果物が必要です。野菜は信号の「赤・黄・緑」の三色をそろえる、と覚えてください。”(2月17日付け毎日新聞)
「たちつてと」と信号色野菜か・・・。私は奥さんを信頼しているから、難しいことは言わなくて、奥さんの作るものは何でも食べる。昼食は外食だが、これは日替わり定食と決めている。自分で選んでいると、ほとんど毎日同じ類のものになる。要はいろいろなんでも食べればいいのだ。
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(第209話) ワンアウトチェンジ |
2005,2,26 |
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「ワンアウトチェンジ」とは「一度の失敗で交代」と言うことである。2月18日付け建設通信新聞の建設論評で触れられている。
“以前、米国企業で経営危機の対処として、経営者のワンアウトチェンジが言われたが、近ごろは日本のゼネコン現場に及んでいると聞く。 今どき、失敗を恐れず果敢に挑戦せよ、などというトップはいないとは思ったが、ワンアウトチェンジでは挑戦する気概が起きないだろう。失敗をすれば、してはならないことだけではなく、何をなすべきだったかが分かる。だが、「小さな失敗に学んで大きな失敗を防ぐ」「失敗は成功の母」などという言葉は死語となり、社会の仕組みから消えたらしい。”
話は子育てにも及び “子供は幾度も失敗して知恵を身につけ自ら学んでいく。しかし、保護者が危ないことを禁止したり先回りして保護し、失敗を体験しないで成長した子供は、たとえば突然ボールが眼前に飛んできても、手を出して自らを守ることを知らない。いま、過保護の子どもたちは成長し建設現場に就労するが、脚立から足を滑らせてもとっさに手が出ず、顔面から落ちて大けがをし、またマニュアルから外れたことには手が出ない。”
いつもこの建設論評を感心して読んでいる。建設関係者ばかりでなく、一般国民に役立つ話も多く、もっと多くに人の目に触れると良いと思う。
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(第208話) 市(いち)の風 |
2005,2,25 |
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“「子供は‘市の風’にあてねば」。社会学者の加藤秀俊さんは幼いころ、明治生まれの祖母がそう語っているのをしばしば耳にしたという。 ‘市の風’とは世間のことを指す。行商人が来れば、買い物の場に子供を同席させた。「血縁集団以外の全く見知らぬ世界への目を開く機会なのであった」と書いている。(中公新書「暮らしの世相史」 人は誰しも、時間という医師の助けを借りて生きている。時間の風化作用なくしては恥も、痛みも、引きずって歩くには重すぎる。”(2月16日付け読売新聞)
大阪市寝屋川市の小学校で教師を刺した、17歳の少年に触れて書かれた文からの抜粋である。少年はテレビゲームに没頭し、「風」に触れることのない暮らしぶりであったようだ。 ボクは小学校に上がる前から農業の父について回っていた。畑仕事を手伝い、問屋にも着いていき、まさしく市の風に当たって育った。そんな生活を今の子にさせるのは至難のことである。それをどうやって補えばいいのか、孫の生活を見ながら考えねばならない。 それにしても「市の風」「時間という医師」、味わいのある言葉である。
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(第207話) 生姜糖 |
2005,2,24 |
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“伊勢志摩への修学旅行のおみやげで一番人気は「生姜糖」だった。生姜糖は和三盆や白砂糖を煮詰めて、生姜汁を加え金属の型枠に流し込み固めた砂糖菓子。伊勢と出雲の名物だ。伊勢でこれが作られたのは200年ほど前、そして、はじめ古市の隣の中之町の山形屋が売り出し、品質良好と明治44年に昭憲皇太后が神宮参拝の際にお買いあげされて一躍有名に。 生姜糖は近ごろ人気がない。最盛期は修学旅行の最も多かった昭和12年から16年。製造業者は十数軒あり、大きな土産物屋はほとんど自家製造していた。今は糖分は控え、修学旅行の激減がそれに輪をかけて売れなくなっている。 そもそも「みやげ」とはお宮から下されたものの意。旅に出て寺社に参り、お札や縁起物を受けたものを持ち帰り、お世話になった人に神仏のおかげを分かち与えて配るもの。 皆さんは修学旅行でどんなお土産を買った思い出がおありでしょうか。”(2月15日付け毎日新聞)
「私の机の小引き出し」という欄に、神宮徴古館前館長の矢野氏が書かれた文章。 先日町内会役員の慰安旅行で伊勢神宮へ行った。バスガイドさんが「修学旅行で来た人?」と問われ、素直に手を挙げた。小学校の修学旅行だった。ガイドさんは即「お歳がわかりますねえ」と言われた。そうなんだ、今は修学旅行コースではないのだ、矢野氏の言葉通りだ。私の修学旅行のお土産は生姜糖だった。生姜糖というと、即修学旅行につながる私なのです。
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(第206話) 名岐駅伝 |
2005,2,23 |
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“この時期、名岐駅伝があるたびに昔のことを思い出します。娘時代、自転車の後ろに幼い妹を乗せて駅伝のスタート地点へ行きました。 発走した瞬間、なぜか選手と同様に自転車で走り出し、岐阜まで追いかけてしまいました。妹は「寒いよう。おなかがすいた」と涙声。暗くなって大垣の親類宅にたどり着き、叱られながらも温かいご飯とみそ汁をよばれました。無鉄砲だったあのころ・・・ほろ苦い思い出です。”(2月15日付け中日新聞)
名古屋市の主婦67歳の投稿文です。こうした思い出が人生の豊かさになります。良い勉強の場になります。危険も悲しみもない温室の中では人は育ちません。子や孫にどこまで許せるか、大いに許せる世の中であってほしいが、ますます難しくなっています。 多分高校生のときだった思いますが、妹を連れて岐阜へ花火を見に行きました。その帰り、渋滞で動かないバスに、地理もわからない真夜中の岐阜の町を、不安いっぱいで駅まで歩いた記憶があります。今思ってもよく歩いたと思います。 今年も2月6日の名岐駅伝には走路補助員という形で参加しました。今では私の毎年の行事となり、この駅伝も私のささやかな思い出を作ってくれます。
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(第205話) 川上貞奴 |
2005,2,22 |
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“1900年のパリ万博。そこの劇場で脚光を浴びる日本の女性がいた。日本最初の女優、川上貞奴。演目は夫の音二郎の切腹場面が売り物の「芸者と武士」など、そう高尚ではなかったようだが、彼女の美しさに人々は見とれた。 音二郎の死後に引退し、大正の一時期を、電力王の福沢桃介と名古屋で暮らした。当時の町の名から「二葉御殿」と呼ばれた和洋折衷の邸宅は、名古屋市東区橦木町で復元され、「文化のみち二葉館」の名で先週から一般公開されている。坪内逍遙など郷土ゆかりの作家たちの資料展示室もある。 貞奴は桃介の事業パートナーで、児童劇団創立にも尽力した。「平塚らいてうらの女性解放運動に互して評価されるべき存在といえる」と作家童門冬二氏は「川上貞奴」で書く。”(2月15日付け中日新聞)
「文化のみち」は、広義では名古屋城から徳川園・建中寺までの範囲をさし、狭義では東区の白壁・主税・橦木町の「町並み保存地区」をさすという。愛知県ウォーキング協会の今年の1月例会は、広義の「文化のみち」が含まれ、私はオープン前の二葉館に寄った。大正時代の日本に、このようなステンドグラスが美しい瀟洒な建物があったのかと思われる外観を呈していた。 来月には愛知万博が始まる。万博に間に合うようにオープンした徳川園やこの二葉館が賑わうことを期待したい。
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(第204話) 結婚指輪 |
2005,2,21 |
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“結婚してまもなく、夫がリストラ、失業。我が家を不況の波が襲った。憧れていた結婚指輪は夢に終わった。 あれから12年の歳月が流れる。今、夫は古希を過ぎ、私は60路の坂。ある日、外出先から帰った夫が突然、紫色をしたビロードの小箱を差し出した。プラチナに模様部分が鋭い光を放った指輪である。毎月の小遣いの一部をためながら、ずっと結婚指輪を忘れていなかったという。夫は「鬱を病んでいたのが癒えたのもおまえのお陰だ。そんな気持ちも込めて」と笑った。はめてもらおうと少し甘えてみたら、夫は「今さら何を」と照れていたが、最後は強引な私に押し切られた。”(2月15日付け朝日新聞)
岐阜県垂井町の主婦・前田さん(62)の投稿文。今62歳、12年の歳月といわれるので、かなり高齢になってからの結婚と言うことになる。この年で、こういう話ができるとは、何と幸せなことか、こういうのが最高の人生ではなかろうか。ボクも何か考えねばいけないかな・・・・。
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(第203話) おそばに座りたい・・・ |
2005,2,20 |
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“ミド嬢と二人、新幹線の待合室にはいると、座席は満席。とそのとき、コート姿の紳士が、紙コップを片手で捧げたまま、立ちあがられ、 「どうぞお座りください」といわれる。すると隣席の紳士も、紙コップを捧げたまま共に席を立たれた。ミド嬢はいち早く私を座らせ、 「あ、私は立ちますからどうぞ、ここへお座りください」と、先に立たれた紳士に言う。立つときにコップのコーヒーをこぼした紳士は、コートのポケットから出したティッシュで、ご自分の手やコップをぬぐうのに夢中のていであったが、ミド嬢の言葉に対し、 「いや、おそばに座りたいのは山々ですが、いま、これをこぼしたものですから」。お二人とも窓側で立たれ、あとから立った紳士は、コップを持ち上げてお相手に、半分、分けましょうか?と目で聞かれる按配。
「床まで拭かれたうえにあのご挨拶、立派な紳士でいらっしゃいますわ」とミド嬢は興奮し、私も「ニッポンの男性も野武士ばかりじゃないのねえ」と、感に堪えて言う。コートも靴も、きちんとした上質のものだった。”(2月13日付け中日新聞)
「あめんぼに夕立」という作家の田辺聖子さんが書いている文を、約3分の一に要約した。状況をおわかりいただけるだろうか。こんな場面で「おそばに座りたいのは山々ですが」という言葉が出てくる素晴らしさ、紹介したく無理矢理要約した。ボクにこういう機知があったら、チョコレートに不自由することはなかろうに・・・。
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(第202話) 早朝の達人 |
2005,2,19 |
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早起きは三文の徳、早朝時間をどう活用すればいいのか。2月13日の日本経済新聞に紹介されていた3名の達人を紹介する。
“◎「朝4時起きの錬金術」などの著書があるジャーナリスト・中島孝志さんは早朝勉強会を奨励する。「夜の勉強会は酒が入って散漫になりやすいうえに、会費が高い。早朝勉強会はまじめで前向きな人が多く出てくるので、人脈作りに適している」。中島さんは午前4時に起床した後、1時間以上散歩するのが日課。 ◎早起き心身学研究所所長の税所弘さんは「人間の体は日の出とともに活発になり、日没とともに休むようになっている。朝の1時間は夜の3時間に相当する」。税所さんのおすすめも早朝散歩だ。30分から1時間程度、同じコースを往復、自分の体調を把握するとともに散歩中にその日のやるべきことを考える。 ◎「朝の達人」を書いた総務省勤務の小石雄一さんは朝風呂を進める。午前6時に起床し、入浴中に、その日の行動を考える。”
ボクも早起き推奨派だ。年中5時半起床を実行し、新聞、日記、電子メールに当てているが、散歩する時間を生み出さねばと思う。もう一考慮が必要だ。
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(第201話) 詫び状 |
2005,2,18 |
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仕事などで詫び状を出さなければならない事態に陥ったとき、どのような文章が効果的か、単に詫びるだけではひんしゅくを買うし、自虐的な文でも相手は釈然としない。2月12日の日本経済新聞にから抜粋する。
“しでかしたミスについて、相手や第三者の立場から問いを立て、それを次の順に配列する。 1)相手理解・・・相手の立場から見るとどうかと考える。 2)罪の意識・・・自分の責任や非はどこにあるのか、相手に謝罪の意志を示す。 3)原因究明・・・なぜこのようなことになったのか、具体的に。 4)今後の対策・・・二度と起こさないための対策。 5)償い・・・どう償うのか明確に。 顧客や取引先からのクレームはチャンスととらえる姿勢が大事。自分でものを考え、手書きで書くことも重要。”
謝罪するのは気が重いものである。つい弁解したり、ありきたりの文になってしまう。この記事を読んでいて、「クレームはチャンス」と捉えることが気持ちが大切と知った。クレームは相手からいたらないところを教えてもらうこと、普段知ることのできない情報も得ることができる。何事もチャンスと捉えれば、積極的な気持ちになる。
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(第200話) 歳に不足なし |
2005,2,17 |
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“「お歳にご不足はありませんわねぇ」 70歳半ばのある企業の会長さんの、96歳のお母様の告別式で、ふとその挨拶がのど元まで出かかった。会長さんのお顔を見たとたん、「お淋しゅうございましょう、こんなに長いこと、ご一緒に過ごされたんですもの」と思ったままが口に出た。 会長さんは、間髪入れずにおっしゃいました。「生まれたときから、あーでもない、こーでもないって、言われ通してきたお袋だったものでね」 ああ、通り一遍のお悔やみを申し上げなくてよかった、とそのときつくづく思った。 「お歳に不足なし」。お慰めのはずの言葉が、胸を突き刺す刃になりかねない。”(2月6日付け読売新聞)
女優・水谷八重子さんの随想である。TPOを心得た言葉は本当に難しい。こうした見舞い言葉はさらに難しい。相手をそれだけ理解していなければできない。理解していてもできるとは限らない。
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(第199話) 女房元気で・・・・ |
2005,2,16 |
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引き続いて女性の話である。いつもながら話題は続くものである。
“「亭主」を「女房」に置き換えたような話を久しぶりにあった学生時代の友人がしていた。彼は企業の管理職。奥さんは専業主婦だったが、子供らが巣立ち、パートに出るようになった。ショッピングセンターの販売職で土、日は出勤する。「休日は家でのんびりできるよ」という彼の言葉に実感がこもっていた。 内閣府の世論調査で、「夫は外で働き、妻は家庭を守るべきだ」という考えに反対の人(48.9%)が、賛成の人(45.2%)を初めて上回った。四半世紀前には賛成が7割越、反対が2割ほどだったから劇的な逆転である。一因に、ものぐさ亭主にも強い味方の家事インフラの充実があるのでは、と推測する。”(2月9日付け日本経済新聞)
もちろん「亭主元気で留守がいい」の言い換えである。世の中変わっていく。しかし、ボクは夫の役目、妻の役目と言った記憶はない。夫婦二人でより良い方法を選択すればいい。子どもができたとき、妻がどうしたいかは、妻が選択した。格好いい言い方をしたが、ボクは炊事・洗濯を一切しない。これでは妻は専業主婦を選ばざるを得ないか・・・・。
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(第198話) 女性は老いて・・・・ |
2005,2,15 |
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“小児科医で評論家、「育児の百科」の著者でもあった松田道夫さんは、晩年「私は女にしか期待しない」とおっしゃったが、今にして思い至る。男は総じて気が小さい。女は肝っ玉がすわっている。私の愛読する田辺聖子さんは、「私は老いれば、もう自戒することなんぞない、と思う。傲慢偏狭になってなにがわるかろう。(中略)地金あらわれ、本音で生きるというのも、品のいいことだ」(「楽老抄」集英社刊)と威勢がいい。 男の私は、ここまで居直る勇気はない。だが、幸い私には3人の娘がいる。私の行く末は安泰だ(と思いたい)。”(2月7日付け読売新聞)
これは、今年66歳になるコラムニスト・北連一氏が、「女性は老いてますます盛ん」と、自分が時代の動きから1周も2周も遅れていることを嘆きながら書いた文である。女性の元気さは今更いうことでもない。何が女性から、男女同権だ、男女共同参画だということか・・・男性から言うならわかるが・・・・ボクはもう何十年も前からそういって怒っている。カルチャーセンターを見よ、レストランを見よ、・・・・を見よ、世の中の楽しいところはすべて女性が占めている! 私は北氏には及ばぬが、娘が2人いる、まずは安泰だ!
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(第197話) 子を通夜の席へ |
2005,2,14 |
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山形県の「心の教育推進会議」の委員になられた眼科医・鈴木さんの話。
“私は、通夜の席に息子たちをできるだけ連れて行くようにしてきた。通夜の席では、息子たちを死者の前に正座させ、生前の私との関わりを話して聞かせた。人間が死ぬとどうなるのか。きちんと死に顔を見せ、最後のお別れだからと、冷たく硬くなった体に必ず触れさせた。 子どもたちに伝えておくべきは「死に対する現実感、死者に対する畏敬の念、死を悲しむ家族の気持ち」である。社会や教育体制がどうであろうとも、親の責任で果たさなければならない。”(2月5日付け朝日新聞)
人を傷つけ、死に至らせる青少年の凶悪犯罪が増える一方である。ある調査では「一度死んだ人間が、生き返るということがある」と答える小学校高学年の児童が34%あった。氏はこの現実から、「命を考え学ぶ機会はもちろん必要だが、むしろ死を実感する体験こそ大切なのではないか」と訴える。死者を我が身に置き換えたら、生きていることの素晴らしさ、それに比べ世の中のことすべてがたわいのないこと、怒ることなど何もない。
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(第196話) 「木戸に立て掛けし・・・」 |
2005,2,13 |
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“接待では楽しい会話もごちそうだ。話す主役はもちろんお客。もてなす側は話題を選び、会話の流れをつくる。営業部員研修などでは話題選びで、よく「木戸に立て掛けし衣食住」を念頭におくようにといわれる。これは「気候、道楽、ニュース、旅、天気、賭け事、趣味、衣食住」の頭文字をとったもの。一般的な事柄にとどめ、政治や宗教などの話は避けたほうがよいというものだ。内容次第で、相手と論争が起きる可能性があるからだ。”(2月5日付け日本経済新聞)
ボクは営業部員ではないので、このような研修を受けたことはない。「木戸に立て掛けし・・・」は始めて聞いた言葉。しかし、長年のサラリーマン生活で自ずと悟っていること。これは接待だからだが、人生についてはこの先に進まないと、本当に得るものはない。
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(第195話) うぬぼれ |
2005,2,12 |
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“若いあなた!カネがなくてもヒマがいっぱいある君よ! 「自分は特別なんだ」という意識を持ちましょう。口にすると鼻持ちならない言葉だけど、黙っておればいい。心の奥の奥でにんまりほくそ笑んでおればいいのです。 22歳で、大阪から漫画家を志して、単身上京したとき。出版社へせっせと原稿の持ち込みをしては、突き返される日々だった。だけどくさったりはしなかった。「自分は特別」という意識があったからです。 志を抱いたら、必ず成就する。そう思い続けていると、何か大きな力が、自分をしっかり支えてくれている感じがしたのです。 他人からみればただの「うぬぼれ」かもしれない。「うぬぼれも極めれば天才だ」これが私の信念です。”(2月6日付け朝日新聞)
漫画家・砂川しげひささんの若者への伝言です。昨日に続いて、これもものは使いよう、の話だ。イチローや落合の話にもあったが、自信がことをなすときの大きな要素だ。うぬぼれも言葉を換えた自信だ。
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(第194話) 厄年 |
2005,2,11 |
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一般的に厄年は数え年で、男性は25歳、42歳、61歳を、女性は19歳、33歳、37歳とされている。これで行けば私は今年厄年だ。
“厄年なんて迷信だと無視してベソをかいたり、厄を過剰に恐れて人生に消極的になったりするのはよくないと思います。むしろ、科学の見地から、厄年の意味を分析することが大切です。なぜなら厄年は人間の成長発達の生理に深くかかわっていると考えるからです。 現代では、不規則な生活、家庭や職場、学校でのストレスによって、体調を崩す年代が、多少修正しながらも厄年に符合しそうです。自覚症状がなくても、定期的に総合的な健康診断を受けるべきでしょう。厄年を「生活スタイルに注意を喚起し、チェックする年」と考えたいと思います。”(2月5日付け朝日新聞)
この文は、93歳の日野原重明氏の文である。物事をどうとらえるのか、そのとらえ方、使い方で良くも悪くもなる。氏のようにとらえれば、厄年も意味がある。私も今年は体をしっかりチェックしようと思っている。
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(第193話) 石碑探偵 |
2005,2,10 |
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“「京都石碑探偵」という本が出版された。「探偵」の正体は、著者で京都市歴史資料館歴史調査担当課長補佐の伊東さん。名探偵が京都を舞台に活躍する推理小説を想像してしまうが、内容はいたってまじめ。京都の街角のあちこちにありながら、見過ごしてしまいがちな石碑にスポットを当て、独自の調査で謎を解明するのが伊東探偵の活動だ。 「歴史の街・京都というが寺社などを除けば、歴史を感じさせるものは案外少ないんです」という。その中で石碑は歴史を想像する上での重要な手がかり。ただ、想像しているだけでは探偵ではない。徹底的な調査が不可欠。文献に当たるのは当然、時には関係者から聞き取りすることもある。 「やみくもに歩き、どんな石碑に出合えるかというのも一つの方法。でも事前に本などで情報を把握してから現地へ行けば、もっと楽しくなりますよ」。”(2月2日付け中日新聞)
石碑探偵は、ホームページ付録の格好のテーマだ。ウォーキングの道中、いくらでも出合う。以前から何とかならないかと気にしているが、石に彫った文字は写真でもわかりづらいし、簡単に読める代物ではない。何とか料理できないものだろうか。
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(第192話) 教えるとは・・・・・ |
2005,2,9 |
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蝋染めの代表的作家、今年米寿の三浦景生(かげお)さんの話。
“昭和17年頃かなあ、蝋染めの小合友之助さんの展覧会を見てびっくりしたんです。普通やない。新鮮やった。この出会いが大きかった。戦後、「蝋染めやりたいんなら、知人を紹介したる」ていう人もいて、会ったら小合さんやったんです。不思議でっしゃろ。 昭和38年に京都市立芸大で教えてた小合さんが、定年になり、後任に僕を呼んでくれはった。そら、嬉しいけど、人教えた経験ないから不安で、「教えるというのは、どういうことですか」って、小合さんに聞きに行ったんです。「自分が勉強することです」て言いはった。どうです、名言でしょ。今でも覚えてる。それやったら、僕でもできるかなと。”(1月29日付け朝日新聞)
縁の不思議、そして、たった一言が人に勇気を与える話。そんな人や言葉の出会いの中で、それぞれの人生がつくられて行く。誰にもまんべんなくチャンスは訪れる、それを掴むのか、見逃すのか、それによって大きく人生は違ってくる・・・・私の口癖である。昨日出会ったあの人に、もっと食らいついていたら、また違った人生が生じたかも・・・・惜しいことをした。
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(第191話) 苦しみは・・・・ |
2005,2,8 |
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“部屋頭の豪風が眼疾患で初場所を全休した。私は「今のつらさを忘れるな。気を紛らわさずに全部を覚えておけ」と言った。ケガをすると相撲を見ない力士もいるが、私は休場中もベッドの上でずっとテレビを見た。苦しみは逃げるから追いかけてくる。追いかければ逃げていくものだ。 己に克って土俵に上がっている力士の相撲は心に響くものがある。華やかなスピード出世もいいが、攻防ある相撲に拍手が送られるように、ファンは挫折を乗り越える戦いも見ている。災害被害に遭われた方々にも活力を与えるような、見応えのあるドラマを期待したい。”(1月25日付け日本経済新聞)
左ひざじん帯断裂で4場所連続休場に追い込まれ、前頭筆頭から幕下30枚目まで落ちた経験のある、元大関琴風、現尾車親方の文である。相撲取りが土俵に上がれないのは、負けるより辛いことという。そんな苦しみを経験をした親方だから言える話である。贅沢にきりはないが、まず生きていて・・・元気でいて・・・あるがままを受け入れ、次に向かいたい。
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(第190話) 元気なシニア |
2005,2,7 |
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「団塊の世代」のネットワークづくりに奔走する田中さん(61)が、1月25日付け読売新聞に紹介されていた。
“「元気なシニアがネットワークをつくり、社会起業で新しい生き方を目指そう」と訴え、全国を飛び回っている。夏までには、東京に「シニア企業支援センター」(仮称)を設立する。「社会起業」とは、収益率は高くなくても安定した収入を確保でき、しかも担い手が生きがいをかじられる社会貢献型の地域密着ビジネスを起こすこと。例えば、高齢者の移動サービス、視覚障害者ガイドヘルパーなどが考えられる。 (田中さんは)88年、日本ではまだ珍しかった高齢者組織を発足させた。以後、シニアの活動拠点づくりやNPO事業の支援などに力を入れる。”
(第176話)で堺屋太一氏の「団塊の世代は、60歳代になって働き続け、新しい産業と文化を興すに違いない。経験と体力とやる気のある優良な勤労者だ。」という言葉を紹介した。田中さんの動きはまさしくこれである。もうすでに動いているのである。
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(第189話) 未来とは何か |
2005,2,6 |
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第46回毎日芸術賞の特別賞がTBS系ドラマ「3年B組金八先生」制作関係者に送られる。毎日新聞専門編集委員の高橋さんが、このドラマの脚本を書いている小山内美江子さんについて書いていた。
“脚本の小山内美江子さんは、30年生まれ。敗戦の45年春、横浜の実家を空襲で失った。「戦争で振り回された15歳の私。現代の15歳は、受験という名の戦争にさらされている・・・・」だから、小山内さんは「15歳」を書き続ける。 小山内さんは執筆の一方、奉仕活動にも積極的だ。93年、カンボジアに小学校建設のためのボランティアグループ「JHP・学校をつくる会」を設立、代表を務める。 小山内さんの次の一言が忘れられない「私たちにとって未来とは何か。子供です。未来がないということは子供の幸せがないということ。そのために地球を汚さないこと」”(1月25日付け毎日新聞)
我々は毎日何のためにあくせくしているのか・・・今現在より少しでもよくするため、今現在を少しでも保つため。その先は・・・死んだら終わりだろうか。多分、子どもを持つ大半の人は、子どもにその先を期待する。小山内さんが言われるように、「未来とは子ども」なのだ。現在すでに子どもに次を託している人も多かろうが・・・・。
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(第188話) 活弁 |
2005,2,5 |
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回顧話続きにもう一つ書いてみる。
“無声映画の世界に観客を引き込む活弁。活動写真の時代から、映画の台詞やナレ−ションを独特の語りで表現する伝統の技だ。その芸を守り、活弁士として活躍中の麻生八咫(やた)さん(53)と子八咫さん(19)親子が、一般向けに活弁のワークショップを全国で始める。今月初め、東京都台東区の浅草大勝館で開いた無声映画大映写会で、参加者を募った。”(1月24日付け中日新聞)
活弁はトーキー映画が始まる1930年代までの話であり、我々世代以降にはもう縁のない世界である。ところが私は1度見たことがあるのである。多分小学生上級生のころだったと思うが、村の集会場に一式携えてやってきた人がいるのだ。有料であった。映画名も忘れたが、なぜかその風景だけはよく覚えている。 そんな世界をまだ引き継いでいる人がいるのだ。活弁は話芸だ。考えてみれば、なかなか面白い趣味になりそうだ。八咫さんはいずれ全国大会を開きたいとはりきっている。
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(第187話) 火鉢 |
2005,2,4 |
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“養老の山々に初雪が降った。それを目安に我が家では火鉢を物置から運び出す作業が始まる。 火鉢にあたりながら目を閉じると、子どものころを思い出す。火鉢だけが唯一の暖房の時代だった。学校から帰ると、火鉢にまたがり、よく母に叱られた。夕食後には家族5人がさほど大きくない火鉢を囲んでラジオを聞くのが楽しみだった。 私は来客があると、火もごちそうの内と思って、火鉢に火をいれてもてなす。お客様も珍しがったり、懐かしんで喜んでくださる。”(1月24日付け中日新聞)
岐阜件岐南町の主婦・平野さん(61)の投稿文である。この文に私も全く懐かしく、火鉢を思い起こした。我が家にも同じ風景があった。火鉢にまたがったり、皆で手をかざし、餅を焼き・・・・。昔は、家族団らんが自然に出来たが、今の時代、それをどのようにして作るのか、その努力をしないと家族がバラバラになってしまう。そして、不祥事を起こす可能性を大きくしてしまう。 我が家にもいくつも火鉢が残っている。単なるがらくたで終わるのか、再度活用はあるのか・・・。
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(第186話) 回顧 |
2005,2,3 |
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読売新聞編集委員・橋本氏が西田幾多郎の一面を紹介していた。
“今年が没後60年となる哲学者西田幾多郎に、「或教授の退職の辞」という随筆がある。昭和3年12月に書いたものである。 「回顧すれば、私の生涯は極めて簡単なものであった。その前半は黒板を前にして座した、その後半は黒板を後ろにして立った。黒板に向かって一回転をなしたといえば、それで私の伝記は尽きるのである」 学生として黒板に向かいながら授業を受け、教師として学生を教えた。クルッと一回りしただけの人生である。そう言い切れる、澄み切ったまでの強さに、西田のすごさがある。”(1月22日付け読売新聞)
あれだけの人がこれだけで語られると、ボクは何といえばいいのか。「飯を食って死んだ」だけで語り終わることがないように、もう少し色を付けねば・・・・。
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(第185話) ビミョー |
2005,2,2 |
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“若者たちの「お行儀の悪さ」は今や親の世代にもまん延している。子どもや若者たちとのコミュニケーションを円滑にしたいオジサン世代の過剰適応か。 S部長も迎合派である。そして、「ビミョー」について学習したのである。複雑なおいしさや一言で言い表せない称賛を若者たちは「微妙」と表現するのだと。 若手ナンバーワンの部下が相談に来た。「あの・・・私の昇格は今回・・・・」。S部長は学習したての表現を活用した。「うん。ビミョー」。キミは一言では言い表せないほど優秀だからまず昇格は間違いないよ、と言う意味だった。しかし若者は翌週転職してしまった。”(1月22日付け毎日新聞)
「オバさんの逆襲」という欄の話である。この使い方は本当に本当かな?信じられない。言葉は世につれ変化すると言うが、しかし、もうこうなったら日本語ではない。私はこんなことに迎合する気は全然ない。「全然」の使い方も全く違和感を覚えることが多い。
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(第184話) 夫はバイ菌を連れて? |
2005,2,1 |
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“「バイ菌を自宅に運んでしまう夫の行動」について、20〜40代の既婚男女各300人にアンケートしたところ、不衛生な実態が明らかになった。 ・宅配便を受け取るとき靴下のまま玄関を歩く=66% ・出張帰りの新幹線で靴を脱ぎ靴下のまま床に足を着いてくつろぐ=60% ・同じハンカチを2日以上使う=53% 一方で、「夫がやっていると思う」と答えた妻は、宅配便=57%、新幹線=37%、ハンカチ=32%で、夫の行動が妻の予想を9〜23%上回っていた。”(1月19日付け朝日新聞)
この行動はバイ菌を自宅に運ぶことになるの?・・・ボクはすべてをやっている。でも、ボクの家庭は純粋培養の家族ではないからなんら問題はない。
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