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東海編


撮影人物も多くなり、全国編より東海関係を独立させ、
三重県、岐阜県、静岡県、長野県分とします。
1)氏名  2)設置場所  3)説明

                     (平成21年7月1日)


 
 1)佐藤一斎  2)岩村城(岐阜県恵那市)  3)1793〜1859年。1772(安永元)年、岩村藩士の次男として
生まれ、林述斎から儒学を学んだ。1793(寛政5)年、昌平坂学問所に入門し、1805(文化2)年には塾長に昇進。
その後は儒学の最高権威としてあがめられた。門下生は3,000人といわれ、佐久間象山、渡辺崋山ら幕末に活躍
した人材たちも輩出。西郷隆盛にも大きな影響を与えた著書「言志四録」は、一斎が後半生に書いた語録。(180401)


     
1)所郁太郎 2)赤坂本陣公園(岐阜県大垣市) 3)1838〜1865年。不破郡赤坂村(現大垣市赤坂町)商人矢橋亦一
(やばしまたいち)の四男。加納藩医青木松軒に医術を学び、のち京都で勉学、さらに大坂緒方洪庵(こうあん)の適塾で
西洋医学を学ぶ。京都で開業中長州藩志士と交流し、1863年(文久3)の政変で長州藩に亡命。やがて諸隊結成とともに
隊医となり活躍。翌64年井上馨暗殺未遂時、治療にあたり井上の一命を取り留める。その翌年28歳で病死。(160416)


 1)平田靭負(ゆきえ)  2)平田公園(岐阜県海津市)  3)1704〜1755年。薩摩藩の家老。宝暦治水の総奉行と
して、わが国治水史上最大の難事業といわれた工事を指揮。工事終了後の宝暦5年5月25日早朝、工事により多く
の犠牲者を出したこと、巨額の工事費を費やし薩摩藩を疲弊させたことの責任をとり、自害した。      (140328)
   


 1)梶原源太景季と名馬磨墨(するすみ)  2)岐阜県郡上市(磨墨の里公園)  3)「宇治川の合戦」は、寿永3年
(1184)1月木曾義仲軍勢と源義経軍勢が宇治川をはさんで戦った。この時、源義経がたの武将・梶原源太景季は「磨墨」を
佐々木四郎高綱は「生づき」を駆って宇治川に乗り入れ先陣を争った。磨墨・生づきは、ともに当代きっての名馬の争いでも
あった。梶原源太景季の乗った磨墨は、馬産地明方村気良の産と語り伝えられ轡も残っている。(公園内碑文の一部)
*明方村は町村合併で現在郡上市明宝となっている。    (130221)


   
1)雷電為右衛門  2)長野県諏訪市(諏訪大社上社)   3)1767〜1825年。江戸時代中後期の比類なき
大関力士。信濃国大石村出身。谷風梶之助、小野川喜三郎とともに完成大相撲黄金期を築き、45歳で引退
するまで優勝27回(年2場所制)、勝率9割6分2厘という強さを誇った。茅野市出身の彫刻家故矢崎
虎夫氏の文部大臣賞受賞作品。モデルは横綱柏戸と佐田山及富士錦。             (111224) 


   
 1)戸田氏鉄(うじかね)  2)岐阜県大垣市(大垣城)  3)1576〜1655年。大垣藩初代藩主。
父は近江膳所城主。1589年頃より徳川家康に仕え、関ヶ原の戦いでは当軍に参加、1607年父の
遺領膳所藩を継いだ。1635)年には,美濃大垣藩10万石へ移封された。14年の島原の乱で活躍。
新田開発を奨励し、藩政の基礎を固めた。美濃文化の基礎を築いたとも言われる。(111118)
  1)松尾芭蕉と谷木因(ぼくいん)

2)岐阜県大垣市(船町・水門川堤)

3)(松尾芭蕉)1664〜1694年。伊賀国上野の農民
の子として生れる。俳諧を10代半ば頃からたしなむ。
1684年頃、蕉風俳諧を打ち立てた。奥の細道の旅で
大垣が結びの地となる。
(谷木因)1646〜1725年。15歳で大垣の廻船問屋の
家督を相続する。かたわら俳諧を京都北村季吟の門
に入り学ぶ。芭蕉と同門、親交を持つ。貞享・元禄期
の岐阜俳諧の発展の立役者。    (111118)        
   
   
 1)飯沼慾斎  2)岐阜県大垣市(俵町薬木広場)  3)1783〜1865年。近代植物学の開拓者。
天明3(1783)年、伊勢に生まれ、12歳のとき学問を志して大垣に出、激動する幕末期を大垣の地で
蘭学医・化学者・植物学者として活躍した。晩年50歳で家督を譲ってからは84歳で没するまで、別邸
である平林荘で植物学に本格的に取り組み、山地奥深くに入って植物を採集し、綿密に観察し、顕
微鏡を覗きながら写生した。世界の名著といわれる植物図鑑「草木図説」を表した。 (111118)



1)源義経  2)伊豆市修善寺(源氏公園)   (110911)
義経は、源氏初代将軍頼朝や、修善寺で自害した範頼の弟に当り この鹿山のふもとに墓のある二代将軍頼家の叔父にあたります。
幼名が牛若丸であり、京都の鞍馬山で育ち、五條大橋での弁慶との出会いなどは有名な話ですが、後に蒙古へ渡ってジンギスカンになったという説もあります。
 この獅子にまたがった像の胸には源氏の紋所ささリンドウが刻まれており、義経ともジンギスカン像とも云われます。
 大正末期、芸術を愛好した菊屋旅館の先々代野田修治の依頼で、修善寺温泉へ滞在していた彫刻家によって、天城山中から運ばれた軽石へ彫られました。


1)ペリー  2)静岡県下田市(下田港)  3)1794〜1858年。アメリカ海軍軍人。1852年
東インド艦隊司令長官に補され、日本派遣特派使節を兼任した。1853年7月、浦賀港に入港。
翌年再来航したペリーは下田港に入港、了仙寺で日米下田条約を締結した。   (110911)
1)下岡蓮杖  2)静岡県下田市(下田公園)  3)1823〜1914年。下田市生まれ。「日本写真師の
祖」「日本商業写真の祖」と称されている。安政3年に米使ハリスの通訳ヒュースケンから写真術を学び、
文久元年(1861)横浜弁天通に写真館を開業し、後に東京の浅草で多数の門下を養成した。(110911)
1)坂本龍馬  2)静岡県下田市(宝福寺)  3)1836〜1867年。勝海舟は土佐藩を脱藩した
門下生・坂本龍馬の身を案じ、下田の宝福寺で前土佐藩主・山内容堂に面会し、龍馬の脱藩赦免を
願い出た。一旦は赦免された龍馬は再び脱藩し、その後、亀山社中を設立、薩長連合を成立させた。
竜馬は浦賀沖で黒船を見たようだが、下田に来たという資料はないようである。     (110911)
下田の町には伊豆龍馬会による「龍馬くん」のお地蔵様が7体設置されている。これはその内の
3体。(左)伊豆急行下田駅のホーム (中)下田駅前  (右)宝福寺         (110911)


1)アレキサンダー・クロフト・ショー  2)長野県軽井沢町(ショーハウス記念館) 
3)1846〜1902年。 カナダ生まれの宣教師。明治19年、軽井沢町にはじめて訪れたショーは、
この地を『屋根のない病院』と呼び絶賛。自ら明治21年、軽井沢で最初の別荘を建てた。
軽井沢の文化に大きな貢献をしたことから「軽井沢の恩父」と呼ばれる。    (110503) 


1)金森長近  2)高山市(城山公園)  3)1524〜1608年。飛騨国高山藩初代藩主。
信長が加賀、越前を攻めた際これに従って活躍、越前国大野郡に所領を得る。その後、
豊臣秀吉の命で1585年飛騨国を平定し、翌年同国をあてがわれる。1600年関ケ原の
戦で軍功立て、新に美濃国上有知・関2万石,河内国金田3000石を得る。茶の湯、蹴鞠
などに堪能、この時代を代表する文化人のひとり。           (101019)
1)廣瀬武夫  2)高山市(城山公園)  3)1868〜1904年。海軍軍人。中佐、
大分県生まれ。日露戦争旅順港閉塞作戦で福井丸を指揮した。退船の最、部下の
杉野上等兵曹捜索の際、被弾戦死し、軍神とされた。西南戦争により竹田の自宅が
焼失し、一家で飛騨高山へ転居し、飛騨高山の小学校を卒業した。    (101019)
1)山岡鉄舟  2)高山市(高山陣屋前)  3)1836〜1888年。幕末の幕臣。
明治期の政治家。剣豪としても知られる。駿府にて西郷隆盛と面会し、勝海舟との会談を
取り付けて、江戸城の無血開城と徳川家の存続に貢献した。1845年、飛騨郡代として
着任した父と高山陣屋へ入った。高山在住の約8年の間に書、漢学、絵画、剣など人間
形成の礎を築いた。父の死後江戸へ帰り、後山岡家の養子となった。    (101019)


1)川端康成と伊藤初代  2)岐阜市(長良橋左岸・ポケットパーク名水)
3)大正10(1921)年、川端康成氏は加納にある寺の養女となっている伊藤初代さんに会うために、友人とともに3度にわたって岐阜市を訪れ、この時の体験を「篝火」「非常」「南方の火」などの短編小説に描きました。「篝火」には結婚の約束をした幸せな2人が長良川畔の宿から長良川を下って来る鵜舟を見る様子が次のように書かれている。(後半省略)
                 平成21年11月14日 (現地説明板より)   (100322)
1)織田信長  
2)岐阜市(岐阜駅前広場)

3)永禄10年(1567年)「井ノ口」から「岐阜」へと地名を改めた織田信長公は楽市楽座など新たな政策を取り入れ、岐阜のまちの発展に尽力しました。マントを羽織り、右手に種子島(鉄砲)、左手に西洋兜を持ち、まっすぐ前を見つめるこの像は、常に時代の最先端を歩き「変革」をめざした信長公の姿を象徴しており、都市再生を図る岐阜のまちの未来を表現するものとなっています。  平成21年9月26日
  (現地説明板より) (100322)


(左)1)市川量造  2)長野県松本市(松本城)  3)1844〜1908年。幕末に江戸で
学問を学んだ後、松本に戻り信飛新聞を発行した。1872年松本城が競売にかけられ
235両で落札された。落札者は天守閣を取り壊そうとしたが、量造は「城がなくなれば松本は
骨抜きになる」と訴え金を工面し始める。城内で博覧会を開催しその入場料などで、
買い戻すことに成功した。その後長野県議会議員を務めるなど松本の産業振興に尽力した。
(右)1)小林有也  2)上に同じ  3)1855〜1914年。和泉(大阪府)の伯太(はかた)藩から
えらばれて現東大で学ぶ。卒業後、現東京理大の設立に参画。明治17年長野県松本市の
現深志高校長となり、31年間在職。生徒の自治活動を大幅にみとめる教育をおこなった。
松本城の天守の荒廃が進んだため、明治34年に時の松本町長小里頼永らとともに
「松本城天守閣保存会」を結成、資金調達に奔走し、明治の大修理を行なった。(100207) 


1)林羅山  2)岐阜県下呂市(白鷺橋)  3)1583〜1657年。江戸初期の儒者。徳川家康・
秀忠・家光・家綱に仕え、儒書を進講し、幕府法令や外交文書を起草した。『寛永諸家系図伝』
『本朝編年録』などをを幕命によって編さんした。詩文集「林羅山詩集巻三 」の中で、有馬温泉、
草津温泉と共に下呂温泉(本の中では湯島)を三名泉と讃えている。  (100130)
1)チャップリン  2)岐阜県下呂市(白鷺橋)  3)1889〜1977年。20世紀最大の喜劇俳優。
喜劇俳優としてイギリス、後にアメリカで活動。無声映画の時代から映画界で活躍。監督、主演、
音楽など全てをこなす。観光客らが映画について楽しく語らいながら温泉街散策できるような
“映画通り”を目指す「ミラクルマイル」事業の第一弾として製作されたもの。    (100130)


1)石川日出鶴丸  2)津市(賢明寺)  3)1878〜1947年。医学博士。京都帝国
大学主任教授の後、1944年に三重県立医学専門学校長に就任。内臓体壁反射を
提唱し、皮電計を開発したほか、GHQの鍼灸業禁止に反対する活動を行った。(090913)


1)源丞内  2)岐阜県養老町(養老駅前)  3)今から千二百年ほど昔、養老山ろくに住む貧しい
きこり。ある日山奥で、石の間から流れ出る山吹色の水を発見。手ですくってなめてみるとお酒で、親
思いの源丞内は毎日これをひさごに汲んで帰り、お酒の好きな父を喜ばせた。水がお酒になったのは
「親孝行のたまもの」とのうわさがときの元正天皇にも伝わり、年号を養老と改められた。更に水がお酒に
なったところは「養老の滝」と命名され、源丞内はのちに美濃守に任命された。(孝子伝説より)(090725)
1)鬼面山谷五郎  2)岐阜県養老町(養老公園)  3)1826〜1871年。江戸後期から明治
初期にかけての相撲力士。第13代横綱。明治になって初めての横綱。岐阜県養老郡養老町の出身。
石屋に奉公していたときに見出され、1852年閏2月初土俵。徳島藩抱え力士として、陣幕、大鳴門、
虹ケ嶽とともに阿波の四天王と称された。1869年2月吉田司家より横綱免許。横綱免許時は
43歳で、これは歴代横綱で最も高齢。1870年11月場所で引退。優勝相当成績7回。(090725)



伊勢若松駅前
1)大黒屋光太夫 2)鈴鹿市  3)1751〜1828年。伊勢国南若松(現鈴鹿市)の生まれ、
回船の船頭。1782年、伊勢から江戸への航海中に台風に遭い、乗員17名と共に遭難。
約8ヶ月の漂流後、ロシアのアリューシャン列島のアムチトカ島に漂着しロシア人に救助される。
4年後にロシア人の協力のもと船を建造して島を脱出、世界で最も厳しいシベリアの寒さと
戦いながらカムチャツカ、イルクーツクを経て旅を続け、途中知り合ったラックスマンの助力に
より首都ペテルブルクで女帝エカテリーナ2世に謁見した。日本に開国を迫るためラックス
マンを長とする使節団に同行して根室に帰国した。ロシア行の記録は桂川甫周によって
     『北槎聞略』としてまとめられた。                       (090627)           

若松小学校校庭

大黒屋光太夫記念館


1)永田佐吉  2)羽島市(竹鼻小学校)  3)1701〜1789年。羽島市竹鼻村の小農の
家に生まれ、10歳の頃名古屋の紙問屋へ奉公に出る。郷里の竹鼻村へ戻ると、綿の仲買を
始め、人々から信頼を得、財をなす。その財は道の整備、道標の設置、石橋の設置、神社仏閣
への寄進等、人々の為に使われた。母親と人々の為に、佐吉大仏と呼ばれる大仏を建立する。
人々は佐吉を仏佐吉と尊敬した。                               (090118)


1)御木本幸吉   2)鳥羽市(ミキモト真珠島)  3)1858〜1954年。鳥羽生れで真珠養殖に生涯をかけ、
箕作佳吉、西川藤吉らの協力を得て真円真珠に成功。世界市場を独占して「真珠王」と呼ばれる。(080718)



1)板垣退助  2)岐阜市(岐阜公園)
3)1837〜1921年。土佐藩出身。
自由民権運動の創始者。1881年、
自由党結成とともに総裁に就任。(080329)

(特別掲載) 1)高橋尚子  2)岐阜市(長良川河川敷堤防)  3)1972年〜。
シドニー五輪女子マラソン金メダリスト。このロードは高橋選手の偉業をたたえようと、
県岐商校時代にトレーニングしたコースを岐阜市が整備したジョギングコース。(080329)


1)藤堂高虎  2)三重県津市(津城)  3)1556〜1630年。現在の滋賀県犬上郡甲良町に生まれ、15才の時、浅井氏に仕え姉川の戦いで初陣し、その後豊臣秀吉の弟秀長に仕えて各地を転戦、1592年に紀伊国粉河で1万石を与えられはじめて大名となった。秀吉の死後は徳川家康と親しくし、1600年の関ヶ原の戦いでは大いに奮戦し、伊予国今治(愛媛県今治市)20万石の大名までになった。築城の名手といわれた高虎は、家康の命により膳所城・丹波亀山城・江戸城・丹波篠山城など数多くの築城や修築を行った。そして53才の時に伊予今治から伊賀国・伊勢国に転封となって津・伊賀上野城主となった。大坂冬の陣、夏の陣では先鋒として戦い、元和2年(1616)に27万3千石余となり、家康の死後は日光東照宮の造営にあたり、元和3年には32万3千石余の大名となった。(080301)
1)谷川士清(ことすが) 2)三重県津市(国道23号歴史散歩道) 3)宝永6年(1709)津の八町に町医の長男として生まれた士清は、13歳で京都の松岡玄達に入門し、「本草学(博物学)」「医道(古医学)」「儒学(漢学)」「神学(国学)」などを学び、享保20年(1735)津へ帰ってきました。町医の傍ら学問にも打ち込み、洞津谷川塾を開き、多くの門人を育てました。号を「淡斎」といい、「古事記伝」の著者である松阪の本居宣長とも親交がありました。有名な「日本書紀通証」は、20年をかけて「日本書紀」を分かりやすくしたもので、士清の名を高めました。さらに、わが国初の五十音訓に並べられた国語辞典として「和訓栞」もまとめ、日本の国語学に大きな業績を残しました。藩主も度々士清宅を訪問するなど、学問・健康(環境)の神様として今も市民に尊敬されています。(説明銘板より)                (080301)


(特別掲載) 1)早太郎 2)駒ヶ根市(光前寺)
3)駒ヶ根市に伝わる伝説の犬。簡単に説明すれば、
光前寺で飼われていた「早太郎」という名前の犬が、
今の静岡県磐田市で祭りの際、一人の子女を人身
御供にする風習に、早太郎が子女の代わりとなり、
怪物の老ヒヒを退治し、村の災難を除いたと言う伝説。
光前寺境内に早太郎の墓がある。  (070915)


1)戸田貞雄  2)浜松市(竜ヶ岩洞) 3)1907〜1987(?)年。東海地方最大の
鍾乳洞・竜ヶ岩洞の発見者。竜ヶ岩洞は1981年6月に2人の理解者を経て開発開始、
1983年10月に一般公開にこぎつけた。貞雄氏76歳の時であった。  (070519)



1)栃錦清隆・高峰美恵子  2)恵那市(大正浪漫館)   3)昭和61年に
日本大正村の初代議長に栃錦さんが、同初代村長に高峰さんが就任された
ことにより、平成6年に大正浪漫館前庭に像が建立された。(070322)

栃錦清隆

高峰三枝子



1)本多忠勝  2)桑名市(九華公園) (説明は愛知県編
の岡崎公園の本多忠勝を見てください)  (070114)


1)佐久間象山  2)長野市(八幡原史跡公園)  3)1811〜1864。江戸時代末期の先覚者。信州
松代藩士。23歳のとき江戸に出て佐藤一斎の門に入り、朱子学を修めた。その後帰藩し真田家に仕えたが、
ふたたび江戸に出て、藩主の顧問になって江川担庵について西洋砲術を学ぶ。これより大いにヨーロッパの
学問に没頭、洋書を読み自力で大砲を鋳造することもあった。また国内の改革にも心を向けた。門弟吉田
松陰をヨーロッパに渡らせその知識を吸収して国内のことに当たらせようとしたが、松陰は密航に失敗し
彼自身も投獄され、後藩に蟄居(ちっきょ)を命じられた。しかし、その後も国事に関し沈黙することなく
しばしば上書した。52歳の時前後7年にわらる蟄居をとかれ、藩政改革に尽力しようとしたが、
思うにまかせず、ついに元治元年三条木屋町辺りで馬上を襲われて54才で殺された。(061028)
1)恩田木工民親(おんだもくたみちか)  2)長野市(真田公園)  
3)1717〜1762年。松代藩財政の建直し充実をはかり優れた民政を行った人として、
また江戸時代の経世家として名高い。三十歳で家老職となり、宝暦七年( 1757 )真田家
六代藩主幸之公に抜擢され、四十一歳で家老職勝手掛となって窮乏する藩財政建直しを
命じられた。 財政窮乏を救う道は倹約が第一であるとして自ら実行し、納税法の改正・
荒地の開墾・養蚕等殖産興業をすすめ、一方、詩歌・音曲を奨励して生活に楽しみを与え、
民生の安定をはかり藩財政の建直しを成功させた。 しかし、在職僅かに五年、四十六歳で
病没した。民親の業績は『日暮硯』(ひぐらしすずり)によって、すでに江戸時代に全国的に
知られ、その写本が流布した。(説明板文を簡略化)    (060903)


川柳&ウォーク