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福井県編


「街角の偉人」の収集を始めてまもない、平成18年9月15日、
「第15回 越前・日本海ハイ!ウォークツー」に参加するため、
福井市に出かけた。大会前日のこの日は福井市内を歩いて回った。
あまりの彫像の多さに嬉しい悲鳴である。ここに1頁を設けて紹介する。

平成18年9月以降、福井県内で偉人像に出会うことがなかったが、
平成26年9月に出会うことができた。以降分も載せて行きます。

   
 1)金森長近  2)大野市(大野城)  3)1524〜1608年。安土桃山・江戸時代前期の武将。岐阜県
多治見市生まれ。信長が加賀、越前を責めた際にこれに従って活躍、越前国大野郡に所領を得る。
亀山に平山城の城郭と、その東麓に、大野が北陸の小京都と呼ばれる所以となる、短冊状の城下町を
造る。その後、秀吉の命で1585年飛騨国を平定し、翌年同国を与えら、高山藩(岐阜県)初代藩主となる。  
   
1)土井利忠   2)大野市(大野城)   3)1811〜1869年。土井氏大野藩第5代藩主土井利義(としのり)の
長男として生まれ、7代藩主となる。内山七郎右衛門らを登用し藩政改革を推進。藩債を整理、藩校明倫館や
蘭学館を創設する。また藩船大野丸を建造し、箱館、大坂などで藩営商店大野屋を経営した。    (140906)


以上のものは平成18年9月以降のもの。



以下のものは平成18年9月に参加の「第15回
 越前・日本海ハイ!ウォークツー」で収集したもの。


1)結城秀康  2)福井市(福井城) 
3)1574〜1607年。結城秀康は徳川家康の二男と
して生まれるが、豊臣秀吉に請われて秀吉の養子と
なり、更に関東の名族結城晴朝に求められ、結城家
を継ぐ。関ヶ原時の対上杉残留部隊責任者としての
功を持って、越前北庄68万石に封じられた。




1)由利公正 
2)福井市(中央公園)

1)横井小楠と三岡三郎(後の由利公正)  2)福井市(内堀公園) 
3)安政5年(1858年)、横井小楠に同道して九州に旅立つ三岡八郎「旅立ちの像」。 
3−1)横井小楠 
 1809~1869年。 熊本藩士。勝海舟、坂本龍馬なども一目置く
幕末期の最も進歩的な思想化。 福井藩主松平春嶽は小楠の実力を見抜き、
彼の派遣を熊本藩に要請。1858年、小楠は福井藩の政治顧問に招かれ、
三岡八郎等を指導し、藩政改革にその思想を反映させた。
3−2)岡八郎(後の由利公正)  1829~1909年。 幕末の福井藩士。福井藩主
松平春嶽に抜擢され藩政改革を進め、横井小楠が福井に招かれると小楠の
理論を実践し藩財政の立て直しに成功した。坂本龍馬と親交が深く、1867年
龍馬が福井を訪れ、八郎の新政府への参画を促した。  新政府では五箇条誓文の
原案を起草した。明治4年(1871)、初代東京都知事となり、東京の近代化に尽力した。



1)岡田啓介 2)福井市(中央公園)
3)1968〜1952年。明治22年、海軍兵
学校を卒業。海軍大将、連合艦隊指令
長官、海軍大臣等を経て、昭和9年)福井
県人として初の内閣総理大臣に就任。
首相在任中の昭和11年、ニ・ニ六事件
に遭遇、九死に一生を得る。

1)熊谷太三郎  2)福井市(中央公園)
3)1906〜1992年。昭和20年10月、市議会の選出によって福井市名誉職市長、昭和22年に公選となり、改めて市長に当選。昭和23年6月28日、福井市内など福井平野一円を激震が襲い、更に豪雨があり、福井平野へ氾濫水が押し寄せた。重なる惨状のなか熊谷市長が先頭となり、都市再興にあたり、さまざまな施策を手際よく進めた。熊谷市長の熱心な治水事業は、杉田定一の「明治の大改修」に比肩するものとして「昭和の大改修」と呼ばれた。


1)岡倉天心 2)福井市(中央公園)
3)1862〜1913年。美術評論家。フェノロ
サに師事。日本の伝統美術復興、東京美術
学校(後の東京学芸大学)の開設に尽くす。
明治31(1898)年、日本美術院を設立。
英文での出版物もあり国際的人物である。



1)お市の方 2)福井市(柴田神社)
3)1547〜1583年。信長のの妹。政略結婚で、
北近江の浅井長政のもとへ嫁ぐ。しかし、
信長が朝倉氏を攻めると、織田・浅井の同盟は
決裂、信長によって浅井氏が滅亡目前となると、
3人の娘たちと共に織田家へ戻る。1582年
「本能寺の変」で信長が死すと、織田家筆頭
家老であった柴田 勝家のもとへ嫁ぐも、翌年に
起こった「賤ヶ岳の合戦」で勝家が敗れると、
勝家とともに北ノ庄城に果てた。

左上の写真を見て、どうして
最後の死まで共にした二人を、
このように背中合わせの配置にしたのか、
疑問が残るのは私だけであろうか。
考えるほどに奇妙である。 

1)柴田勝家 2)福井市(北ノ庄城址公園)
3)1552〜1583年。愛知県出身。織田信長の
部将として各地に転戦,多くの軍功を立てた。
信長の死後、明智光秀を討って主導権をにぎっ
た豊臣秀吉と対立したが、賤ヶ岳の戦いに破れ、
居城の北の庄で自殺した。



1)細井順子 2)福井市(繊協ビル)
3)足羽郡六條村(現福井市)に生まれ、呉服町
通 りの細井万次郎と結婚していた。そんな順子
が、機織り技術と聡明さを見込まれて1876年、
福井県初のバッタン機の伝習生に選ばれた。
バッタン機の操作は困難を究めたが、一年足ら
ずで体得する。その後、福井織工会社の教師と
して迎えられ、これを女子工員全てに伝授し、
福井県を日本一の羽二重王国へと導いた。

1)継体天皇  2)福井市(足羽山)
3)450〜531年?。第26代天皇。
在位25年。天皇になる前の数十年
間を越前で過ごしたといわれる。また、
越前平野の治水や笏谷石の採掘に
貢献したといわれる。このいわれから
明治期に石工らによって作られた。

1)橋本左内  2)福井市(左内公園)
3)1834〜1858年。福井藩士。大坂の緒方
洪庵に医学・洋学を、江戸の杉田成卿らに
蘭学・医学を学ぶ。中根雪江、由利公正らと
藩政改革に尽力。将軍継嗣問題では藩主
松平慶永を助け一橋慶喜を推した。
安政の大獄で斬罪に処される




1)橘曙覧(たちばなあけみ)
2)福井市(橘曙覧記念文学館)

3)1812〜1868年。福井出身で江戸
時代の歌人。若くして父母と死別。
21歳で結婚、家督を弟に譲り、黄金
舎で貧しく暮らす。国学を学び、飛騨
の田中大秀に入門。クリントン元米
大統領がスピーチに彼の歌を引用した
ことで有名。作風は万葉調で、
明治時代の歌人正岡子規は「万葉
集、源実朝以来の歌人」と絶賛した。



1)松岡屋吉兵衛  2)福井市(愛宕坂) 3)愛宕坂を整備した福井の商人。



1)大森房吉 2)福井市(手寄公園)
3)1868〜1923年。1890年、東京帝大
理科大学物理学科を卒業後、大学院で
地震学、気象学を専攻し、1896年、29歳
の若さで同大学地震学教授となり、終生
地震学の研究に専念しました。大森の地
震学上の業績は大森式地震計の考案、
地震帯の発見、初期微動と震源距離と
の関係(大森公式)、余震頻度の式、
建造物の振動測定(耐震試験)など
数多くあり、地震発生の構造を探る
研究のみではなく、地震によって引き
起こされる災害から人々を守るための
研究にも取り組みました。


1)松尾伝蔵  2)福井市(旭小学校)  3)1872〜1936年。岡田啓介首相の身代わりで殉職。


1)蓮如  2)あわら市(吉崎御坊)
3)1415〜1499年。本願寺第七世存如を父に、
1415年、京都大谷の地で生まれた。父の死とともに
第八世となる。以後、劣勢の本願寺を立て直すため、
本格的な布教活動を行う。しかし、それが山門(延暦
寺)の反発をかい、1465年、近江に難を逃れ、堅田
をはじめ湖南の各地を転々とした。1471年、浄土真
宗の根本道場として吉崎御坊を創建、北陸の布教
活動拠点として隆盛を極めた。


帰って調べてみると、松平春嶽や中根雪江などまだまだ見落としてきたようである。
名古屋市では加藤清正一体、一宮市ではまだ一体も見つからない。それに比べ、
何という多さ、偉人排出の多さもあると思うが、県民性、市民性があるのではなかろうか。
街を知ってもらうに良いことと思えても、悪いことは思い浮かばない。


川柳&ウォーク